第09話 「片鱗の八拍」
辺境砦は谷の喉にあり、風が常に片側から吹いた。砦門をくぐると、石の床が足の裏に硬さを返す。蒼環の師範カザンは痩せた長身で、目の奥が涼しい。彼は私の足元を一度見ただけで、短く言った。
「零がある。
——見せよ」訓練場は円形で、砂が薄く敷かれていた。私はミリアと向かい合い、風と土の四拍・六拍を一巡した。カザンは頷き、次に言った。
「八拍の片鱗まで。
止めるのは私だ」私は零で底を作り、四、六と重ね、八の“起”を足で鳴らした。胸の内側で熱が静かに膨らみ、視界の縁が白くなる。次に“捩”。腰をわずかに捻り、体幹に軸を作る。熱が流れを変え、刃のない刃が肩の外に立つ。“和”。呼吸を腹で広げ、熱を薄く伸ばす。世界が一瞬、柔らかい。私はそこで切った。片鱗。
足はまだ、八の先を求めていたが、灰紋が警告を発した。細い痛み。私は零を挟み、体を土に戻した。カザンは砂に棒で円を描いた。
「捩は軸。
和は伝達。留は固定。散は解放。——今のお前は軸と伝達まで。良い。代償は、留と散で払うことになる」「代償?」
「留は筋。
散は視。どちらも過負荷で壊れる。だから零を多くせよ。零は借金の利息払いだ」言葉は厳しく、理は優しかった。私は頷き、もう一度だけ片鱗を踏んだ。ミリアは私の外側で風の四拍を重ね、伝達を助ける。カイルは壁際で槍の二打を時折刻み、場の拍を整えた。訓練の終わりに、砦の警鐘が短く鳴った。
斥候が駆け込み、谷の上で魔獣の群れがうごめくと報せた。カザンは即座に配置を指示し、私に目を向けた。
「片鱗まで。
八に深入りするな。四と六で回し、必要なら“捩・和”まで。留と散は私が受ける」受ける、という言葉に、私は深く頷いた。誰かが受けてくれるなら、踏める場所が増える。私の足は軽くなった。夕暮れ、谷の上に黒い背が連なった。牙ではなく角。目は赤く、足は早い。風が逆らい、土は崩れやすい。
私は零を打ち、四拍で入口を開け、六拍で渦を置いた。カイルの槍が二打。合図。私は“捩”まで踏み、和で熱を薄く広げ、留は——打たない。カザンが前へ出て、六拍の円で群れの先頭を留めた。散は、砦の弓が受け持った。短いが、濃い戦だった。片鱗は戦場でも出せる。だが、留と散は、まだ貸しだ。私は零で息を整え、灰紋の疼きを撫でた。
疼きは、納得していた。撤収の合図が静かに広場に落ち、隊は砂を掃いて足跡を消した。訓練場へ戻る途中、ミリアが袖で額の汗を拭き、私の歩幅に合わせる。
「捩の“軸”を作るとき、胸を固めすぎてる。
軸は肋の内側に置いて、喉は柔らかく。声が先に走る癖、少し戻った」「了解。——足の“抜”を半拍早める」カザンは訓練場の縁で待ち、砂に棒で短い楕円を描いた。
「今日の楕円は大きくも小さくもない。
お前の“捩・和”が、ちょうどこの縁で止まった。良い。それ以上は、留を受ける者がいれば踏める。受けなければ——踏むな」彼はそう言って、楕円の内側に点を打つ。
「“留”は点だ。
点は深い。深いほど、戻る道が狭くなる。だから、戻る道を先に描け。零は、そのためにある」夕食後、医務舎で筋の冷やし方を教わった。草の香りのする湿布布を巻かれ、灰紋の近くに手を当てられる。治療師は眉をひそめ、「導管がよく通る体だ。通りすぎるのが怖い」と呟いた。
「通しすぎない方法を、覚えたところです」寝台に戻ると、カイルが扉にもたれて立っていた。
槍の柄で床を二度、軽く叩く。音は小さいが、底がある。
「明朝、稽古を一本。
槍の“留”と、お前の“捩”の重なりを試す。場が狭いときの逃がし方も」「頼む」灯を落とし、耳を澄ます。砦の夜は、遠くの川と、壁の中を巡る風が鳴っている。私は舌の付け根で内拍を打ち、胸の底に零を置いた。片鱗は、欲を呼ぶ。欲は、手順で馴らす。眠りの底から、もう一度だけ“捩”の軸を確かめた。夢の中で、前世の道場の床板が鳴った。
白い胴着の少年たちが列を作り、師の「構え」の声で足を半歩ずつ運ぶ。あの時も、私は呼吸が先走り、足が遅れた。師は竹刀で床を二度、軽く叩いた。二打。いま、カイルが落とすのと同じ音。音の「空き」に、体は入る。合図は、昔から変わらない。目を覚ますと、夜はまだ深く、砦の見張り台で交替の足が鳴った。
私は寝返りを打ち、灰紋の熱が落ち着いていることを確かめる。導管は、流し過ぎなければ味方だ。明日の筋肉痛の場所を予想し、湿布布を先に巻いておく。手順は、未来の自分への配達だ。毛布の向こうでミリアが小声で言った。
「前世でも、拍を数えてた?」
「ああ。
数えないと、怖かった。——数えると、動けた」「同じだね」彼女の寝息はすぐに整い、私は胸の底で零をもう一度だけ置いた。怖さは消えない。扱うだけだ。灰は消えない。肥やしにするだけだ。




