第04話 「市井の盾」
夜明け前の市は、灰の匂いにパンの匂いが混ざっていた。私とミリア、ノワは裏路地を縫い、古いパン窯のある店の裏口に辿り着いた。扉は軽く二度叩くと開き、粉だらけの手が私の腕を引き入れた。
「うちの窯は灰に縁がある。
灰王子に貸しがあってね」店主はそう言って肩をすくめ、私たちに水と硬いパンを渡した。店の奥、窯の脇には古い石畳が露出し、薄い風の紋が刻まれている。昔はここで風の舞を打ったのだろう。ミリアがその紋の端に指を置くと、冷たい気が手首に絡み、拍が落ち着いた。
「宗廟の巡りが来る。
ここで体を落ち着けて。合図は窯の音で隠せる」店主の言葉に甘え、私は四拍を短く刻んだ。灰紋の疼きは夜より静かだ。パンの香りは、腹の底を温かくする。ノワは背中を壁に預け、細い目で戸口を見張っている。外で鈴の音が一度鳴り、足の合図が通りを渡っていった。巡りだ。私は内拍で零を打ち、肩の力を下ろした。
店主が粉袋を動かしながら、ぽつりと言った。
「王都が焼けた夜、俺はこの窯を守った。
灰は降ったが、パンは焦げなかった。灰は全部、悪いわけじゃない。——あんたが“灰王子”でよかったよ」私は頷いた。言葉は短く、拍で返した。足裏の「1」を床に落とし、四拍で「ありがとう」を告げる。ミリアがわずかに笑い、ノワが鼻で笑った。巡りが遠ざかると、店主は窯の奥の石を外した。中は狭い空洞で、古い木箱が一つ。
開けると、中から小さな鉄の環が出てきた。鈴の芯だ。音は出ないが、足の拍に触れると微かに震える。
「合図を奪う連中は、鈴で拍を縛る。
こいつは逆だ。拍を“ほどく”。昔の舞師が置いていった」ミリアは感嘆の息を漏らし、鈴の芯を私の掌に乗せた。冷たさが皮膚を通り、灰紋の熱が一瞬だけ収まる。零。芯は微かに震え、拍が底から立ち上がった。
「借りる」「返さなくていい。
返すなら、王都に“焼ける前の朝”を返してくれ」店主の言葉は冗談めいていたが、奥に硬い芯があった。私は真面目に頷くしかなかった。約束は、拍の上に置くものだ。外へ出ると、朝の光が斜めに通りを照らしていた。巡りが去った直後、角で白い衣の一団がこちらを向いた。宗廟の見習いだ。手に持つ木の輪の内側で、小さな鈴が揺れている。
合図を奪う仕掛けだ。ミリアが肩で私に当たり、内拍を合わせる。
「六」——拡張で受け、道を広げる。
私は頷き、鈴の芯を掌で転がした。掌の奥で震えが広がり、外の鈴の音に薄い“ほどけ”が混ざる。白衣の一人が輪を掲げ、囁きを乗せてきた。拍が滑る。私は零で底を作り、四拍の風で輪の外側を撫でた。音が引っかかり、囁きが空気に散る。ノワが横から入り、輪を持つ腕に軽く足を引っ掛けた。転ぶほどではないが、拍が崩れる。
輪の中の鈴が自分の拍を失い、ただの金属になった。
「拍は、奪うより、合うほうが強いよ」ミリアの声に、白衣の目が揺れた。
彼らは散り、私たちは通り抜けた。市井の目が、窓や屋台の影からこちらを見ている。拍を合わせる者たちが、少しずつ増える。手を振る人はないが、足音の「1」が私と同じだった。灰王家の古い離れに着くと、扉に封蝋が押されていた。宗廟の封。ノワは舌打ちし、裏手の小窓を示す。
「中は罠。
拍を奪う罠がいっぱい。けど、必要なものがある」「八拍の続き?」
「それも。
でも、まずは“隊”の印」小窓から滑り込むと、薄暗い部屋の床に細かい紐が張り巡らされていた。踏めば鈴が鳴る。拍を乱す仕掛けだ。私は鈴の芯を掌に乗せ、零を打った。掌の震えが紐の震えを“ほどき”、張力が一瞬だけ緩む。ミリアが六拍で渦を作り、紐の波をずらした。ノワが腹這いで潜り、棚の裏から木箱を引き出す。
箱の中には、古い金属の留め具——隊章が入っていた。灰王家の“灰”と風の紋が重なった印。これがあれば、入隊試験の受付で名を名乗れる。宗廟が私の名前を封じても、印は封じられない。戻る途中、外で鐘が鳴った。午前の合図。試験の呼び出しまで、あと一つの鐘だ。私たちは足を速めた。封蝋の扉の前で、白い衣の一団が振り返る。
彼らは拍で人を囲む術に長けている。輪を重ね、音を重ね、合図を網にする。私は掌の芯を強く握り、零から四へ。足の裏で「軽・払・切・抜」。音は網の目で滑り、輪の重ねがちぎれた。ミリアが「巻」で渦を広げ、ノワが肩で私を押し出す。輪は、合わせる拍を失って崩れ、私たちは朝の光へ抜けた。市井は、私の足音に耳を済ませている。
誰も声は出さないが、パン窯の煙突から白い煙が一本、まっすぐに立った。朝の合図。——市井は、私に盾を貸してくれた。私は心の底で零を打ち、印を懐に入れた。入隊試験の鐘は、すぐそこだった。




