第03話 「灰紋の疼き」
宿は市壁の近く、旅人と兵が混ざる粗末な長屋だった。床板は乾き、藁の寝床は草の匂いが強い。ミリアは扉の閂をかけ、机に布包みを置いた。包みからは、細い鈴と、短い棒と、古びた紙片が出てきた。
「灰王家の倉から持ち出した“舞詞”。
読める?」紙片は焦げ跡と水染みで半分ほど失われている。残った文字は、古い字体で「風」「火」「土」の一部が読めた。足の図と、拍の刻み方の記号。私は指でなぞり、舌の付け根で短い拍を打つ。頭の奥に、かすれた声が蘇る。誰かの教え方。誰だろう。前世の師はいない。だとしたら、体が覚えているのは、この身体の“王子”の訓練の名残か。
「読める。
全部は無理だけど、筋は分かる」「なら、火の四拍。ここでは小さく」私は立ち上がり、藁床の端で四拍を刻む。火の詞は、風より熱い。声を硬く短く。
「灯・打・裂・留」——足裏から喉へ、喉から胸へ。
藁の上で小さな熱が立ち、赤くならない程度に揺れた。ミリアはすぐに鈴を鳴らし、拍の外で音を重ねる。拍が揺れる。灰紋が疼く。
「合図奪いの訓練。
零」私は鼓膜の内側で一度だけ無音を打ち、拍を底に戻す。疼きが薄れる。火の四拍は続けられる。ミリアは頷き、鈴を止める。
「灰紋は、拍が外から押されると反発する。
だから、押されたら『底に戻す』。底は自分のもの。——次、土の四拍」土は重い。
「固・受・返・踏」。
床がわずかに硬くなり、体が沈みにくくなる。拍が重くなるほど、灰紋は静かだ。反対に、風や火で上へ行くと、疼きは目を覚ます。上下の振幅。私はそれをノートの余白に矢印で描いた。
「前世でも、こうして覚えてた?」
「似たようなもの。
手順を書いて、順番を守る。順番を変えるなら、理由を書く」ミリアは少し笑って肩をすくめた。
「あなた、“隊”に向いている」扉の外で、靴音。
二人分。低い声。私たちは目を合わせ、内拍で合図する。ミリアは机の上の短い棒を私に渡した。重さと長さが竹刀に近い。私は棒の重みで足裏の拍を測り、藁床から一歩だけ外に出た。扉が軽く叩かれ、丁寧な言葉で名を呼ばれた。
「レン様」——様。
宗廟の手ではない。扉を半分開けると、外に立っていたのは、灰王家の侍女服に身を包んだノワだった。昼間の路地で兵の腰紐を引いた彼女が、今度は真顔だ。
「内々の使い。
家の地下庫で、舞詞の“続き”を見つけた。けど、枢機卿派が目を光らせてる。今夜、動くなら今」ミリアは短く頷き、私に視線を投げた。
「行ける?」
「行ける」宿の裏口から出ると、夜気は昼より冷たく、灰の匂いは薄かった。
市壁の影を縫い、石段を下る。ノワは猫のように足を置き、角を曲がる前に必ず一拍、耳で風を測る。合図は声ではなく、肩の角度と息の長さで交わした。灰王家の裏門は、石の蔦に隠れるように口を開けた。ノワが鈴を逆向きに振り、内側の拍を合図に合わせる。扉は音もなく開き、冷たい空気が流れた。
地下庫への階段は長く、壁の燭台は三本に一つだけ火が灯っている。足音の拍を外に漏らさないためだ。最下段の小部屋で、古い棺の蓋がずれていた。中に巻物が二本。一本は赤い紐、一本は青い紐。ミリアが青を取り、私に赤を渡す。赤の巻物には、八拍の端が記されていた。完全ではないが、六拍の先にもう二つの拍をどう置くかの図がある。
息が熱くなる。灰紋が、静かに震えた。
「八拍は、代償が大きい」ミリアが囁く。
「無理はしない。
今は読むだけ」その時、地下庫の天井で木が軋んだ。上の階の廊下に、複数の足。鈴の音はない。けれど、足の拍が揃いすぎている。兵ではない。儀礼の歩き方。宗廟の者だ。ノワが口の端だけで笑った。
「お迎え、早いね」「出口は?」
私が問うと、ノワは棺の底を指で撫で、薄い板を押した。空気が動き、床に細い隙間が開く。地下水路へ通じる抜け道。だが、幅は狭い。ミリアが巻物を胸に抱え、私に視線で「先に」と言う。私は首を振った。
「六拍で風を渦に。
彼らの足を半拍、遅らせる。——零で底を作って、交代で抜ける」ミリアはわずかに笑い、足を肩幅に開いた。私たちは同時に零を打ち、六拍を刻む。
「軽・払・切・抜・巻・下」。
地下庫の入口で、宗廟の白衣が揺れる。彼らの靴音が一斉に速くなり、拍が崩れた。渦は目に見えないが、裾を引く。ノワが先に抜け、次に巻物を抱えたミリア、最後に私。狭い水路の中は冷たく、肩が石に触れるたび、灰紋がそこにあると主張した。疼きは、拍が狭い場所で乱されると強くなる。私は舌の付け根で内拍を打ち直し、零を足裏に落とす。
疼きは、従った。水路が開け、裏門の外、藪の陰へ出る。夜は深いが、遠くの鐘が時を区切る。三つ、四つ。ノワが草を払って立ち上がり、短く報告した。
「巻物は二本とも確保。
——でも、足の合図が追ってくる。鈴は鳴らさない。足だけで奪いに来る。厄介」「なら、足を奪われない歩きにする」ミリアが応じた。
「零を多めに。
歩幅は不規則に。呼吸は交互に短く」私たちは三人で歩きながら、言葉を使わずに合図を回した。歩幅は二、三、五と揺れ、零がその間に挟まる。後ろの足音は、一定のままこちらに近づこうとして、何度か空を踏んだ。夜風が、灰ではなく、湿った土の匂いを運んだ。遠くで犬が吠え、屋根瓦が冷える音がした。
灰紋の疼きは、身体の一部になりつつある。痛みと一緒に、道具にもなる。使い方を間違えなければ。曲がり角の先、路地の奥で、黒い面がまたこちらを見た。今度は鈴を持っていない。持っているのは、足。彼は足を前後に揺らし、一定の拍をこちらに投げてくる。合図の網。私の足が、一瞬絡まりかけた。零。底に戻す。
ミリアの肩が私の肩に触れ、内拍が合う。網は、ほどける。黒面は、面の口をわずかに開いた。声が漏れる前に、私たちは角を抜けた。網は背後で縮み、石畳に落ちた。入隊試験まで、刻は少ない。けれど、足と拍と零は、手に馴染んだ。灰紋の疼きは、まだ私を試す。八拍の巻物は、胸の奥で静かな熱を放つ。
——試験の場でも、合図は奪いに来るだろう。ならば、奪わせない。奪われても、戻す。底へ。夜は、拍を数えるのに向いている。