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第02話 「風の手ほどき」

 市のはずれ、粉挽き小屋の裏に古い井戸がある。蓋は半分苔に覆われ、縄の結び目は新しかった。ミリアはその結び目に指をかけ、左右で違う向きを揃えると、井戸枠の石が静かに回った。中は空洞で、階段が下へ続いている。


「王都の下は、昔の水路と舞場が縫い合わさっている。


 宗廟は封じたつもりでも、足は道を覚えている」彼女は足裏で二拍を刻み、私に顎で合図した。降りる前に、私は息を整え、灰紋の疼きを指先で押さえる。皮膚の内側を指で撫でても、触れられないものが脈を打つ。拍を乱す音が遠のくにつれ、疼きは薄れるが、完全には消えない。地下は涼しく、湿った石の匂いがした。


 壁に沿って古い彫り模様が続き、ところどころで風の紋が薄く光る。ミリアは松明を掲げ、足を止めた。


「ここなら、合図は奪われにくい。


 ——風の四拍、正しくやってみせて」私は頷き、足を肩幅に開いた。零。1。右足の指で床の粒を探り、最小の踏み。2。呼吸を喉で転がす。3。背骨の上に音を乗せる。四拍。声は小さく。


「軽・払・切・抜」。


 足裏から頭頂まで一筋の線が立ち、空気がわずかに薄くなる。ミリアは横から私を見て、眉を寄せた。


「数はきれい。


 けれど、声が先に行きすぎ。足の“抜”が遅れている。刃があるつもりで、指先まで通して」彼女は私の前に立ち、同じ四拍を刻んだ。足の皮膚が床を撫で、膝が沈み、肩がほんの少しだけ遅れて落ちる。声は最後にすべり込む。


「軽・払・切・抜」。


 空気がパチンと弾け、私の頬に涼しさが当たった。


「風は、刃じゃない。


 刃に乗る“ここち”だよ。だから、足から声へ。声から刃へ。刃から風へ。順番を崩さない」順番。段取り。前世で体に刻まれた感覚が、別の言葉で呼ばれている。私はもう一度、四拍を刻んだ。今度は、足裏の抜きを半拍だけ早くした。声の「抜」が、足の「抜」と重なる。空気が頬を撫で、灰紋の疼きがひとつ分静かになる。


「いい。


 ——六拍に伸ばして」六拍は拡張。私は「巻・下」を足裏の後半に置く。起・承・転・結の間に、渦と落下を挿し込む。声は低く、短く。


「軽・払・切・抜・巻・下」。


 風が足元に渦を作り、松明の火が斜めに揺れた。ミリアは頷き、私の背中に掌を当てた。


「灰紋が疼くのは、拍が空回りしているとき。


 零を入れて、足の底に落として。あなたは零がうまい」零の一拍。呼吸の底で世界を薄くする。私がそれを打つと、灰紋の熱が薄皮一枚分だけ遠のいた。痛みは残るが、操れる。


「合図奪いへの対策は?」


「二つ。


 可変拍と内拍。可変は、途中で拍をずらすこと。内拍は、足以外で拍を刻むこと。私は肩甲骨で打てる。あなたは?」私は少し考え、指先と舌の付け根で短く拍を打った。歯の裏側に、微かな節が触れる。ミリアは目を細め、笑った。


「良い癖。


 内拍がある人は、奪われにくい。——さて、上へ戻る前に、ひとつ貸して」彼女は私の両手の縄の痕に薬草を塗り、布で巻いた。冷たさが骨に染み、手の震えが落ち着く。松明の火が小さく鳴り、井戸の上から遠い鈴の音が薄れていった。


「宗廟は、あなたを“贖い”にした。


 けれど、灰紋は呪いだけじゃない。古い剣舞師は、灰脈を“導管”と呼んだ。拍が揃えば、通りは良くなる」「通り?」


「刃に、風や火が乗りやすくなる。


 ——でも、強すぎる通りは、身体を焼く。だから、零で底を作る。足は土に借りる。頭は風に借りる。刃は手に借りる。借り方を間違えない」私がうなずいた時、井戸の上から石が弾ける小さな音が落ちた。ミリアが顔を上げ、松明の火を手で覆う。暗闇に、足の微かな擦れ。合図を奪いに来る者の足だ。彼らは、鈴だけでなく、足音でも拍を乱す。


「出るよ。


 ——二拍(短)で走り、四拍(起動)で逸らし、六拍(拡張)で逃げ路を広げる」私たちは息を合わせ、階段を駆け上がった。蓋の隙間から光が射し、外の音が濃くなった。井戸の外に黒い影。面の口が開き、囁きが滑る。私は舌の付け根で内拍を一つ打ち、足裏の「1」を前に送った。風の四拍で影の肩を割る。彼らの鈴が鳴る。拍がひとつ、飛ぶ。


 私は零で底を作り、六拍に伸ばして渦で足を絡める。ミリアは私の背を押し、路地の端へ追い風を作った。影は、煙のようにほどけ、壁の上に散った。地上の空気は熱く、遠くで鐘が鳴っている。王都の一角がざわめき、枢機卿の鈴はまだ広場で鳴っていた。私は肩で息をし、ミリアと目を合わせた。


「入隊試験まで、二日。


 あなたを“使えない灰”と決めつける声は多い。でも、舞は嘘をつかない。拍を見せれば、黙る」彼女の言葉は短く、硬い芯があった。私は頷き、灰の匂いの残る風の中で、もう一度だけ零を打った。灰紋の疼きは薄れ、足裏の底が、石の確かさを返した。遠くの屋根の上、黒い面がこちらを見ている。合図を奪う者たちは、試験にも顔を出すだろう。


 拍を乱すために。——なら、乱させない。私は足の甲で短く二拍を刻み、ミリアにだけ聞こえる声で言った。


「四拍で始めて、六拍に伸ばす。


 間で零を挟む。——やれる」ミリアは、笑った。


「やれる」風が、井戸の口から静かに昇った。


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