第10話 「辺境への発令」
夜明け、砦の会議室に呼ばれた。壁に粗い地図、卓の上に封蝋のついた巻紙。カザンとカイル、ミリア、ノワがいた。カザンが封を切り、短く読み上げた。
「宮廷通達。
——“灰王家の若子レン、辺境砦にて暫定任務に就け。任務は『灰の谷』の通行路確保および“合図奪い”の源流調査。指導者は蒼環師範カザン。監察は宗廟派立会”」最後の一文が重かった。宗廟派の立会。拍を奪う術を使う者たちが、現場に入る。罠も、目も、増える。だが、逃げ場ではない。私は卓の縁に指を置き、零を打った。
「受けます」カザンは頷き、地図の“谷”に指を置いた。
「谷の喉を押さえる魔獣が、夜間にのみ移動する。
昼は石の陰に潜む。合図奪いの黒面は、谷の縁に“網”を張る。——我々は道を作る。四と六で足場を作り、槍で留め、風で散らす。八は、片鱗まで」私は「はい」と答え、ミリアは「了解」と短く返した。ノワは地図の余白に細い印を付ける。給水、退避、合図の場所。拍を外に渡さないための道筋。支度の間、砦門に白い衣が現れた。宗廟派の立会だ。
鈴は袖の中に隠し、足の拍は整いすぎている。先頭の男は目を細め、礼とも命令ともつかない角度で頭を下げた。
「立会の者。
——儀は守られたい」儀。彼らの“儀”は、拍を固定するための枠でもある。私は無礼を避け、零で底を作ってから短く礼を返した。彼らの視線は灰紋に落ち、すぐに戻る。鈴は鳴らない。だが、足音は鈍く重い。重さで拍を奪うつもりだ。谷へ降りる道は細く、片側が削れ落ちていた。足場を作るのは土の仕事。
私は四拍で「固・受・返・踏」を繰り返し、ミリアが風で肩を軽くする。カイルは槍で先端を留め、落石を避ける。ノワは後方で宗廟派の足の拍を“外”へ逃がす。鈴の芯は懐で震え、ほどけが薄く広がる。谷の喉に近づくと、風が横から抜けた。岩の陰に黒い面。こちらを見ている。私は舌の付け根で内拍を打ち、足裏で零を挟む。
面は指で岩を叩き、拍の網を投げる。宗廟の立会が後ろで鈴を隠し打ち、場の拍を固定しようとする。拍の綱引き。私は掌の芯を強く握り、四から六へ、六から四へ、可変で揺らす。網は私に絡まず、岩の角を滑った。カザンが前に出て、六拍の円で風を切り、槍の二打で谷の底へ合図を落とす。魔獣の影が動き、岩から剥がれる。
カイルの槍が留め、弓が散らす。私は“捩・和”まで踏み、留と散の手前で零を挟んだ。灰紋が熱を上げ、皮膚の内側で脈が増える。だが、底は崩れない。短い交戦の後、谷の喉に細い道が露わになった。風が一つ、通った。宗廟の立会は鈴を袖に戻し、無言で頷いた。彼らの拍は重いが、今は邪魔ではない。
帰路、喉の道を試すために、砦の補給隊を一隊だけ流した。小さな荷車、二頭の山羊、二人の子ども。足の“1”を揃え、角で道を擦らないように、渦の端を薄く置く。岩の側面に擦り傷はつかなかった。荷車の車輪が石を噛み、谷風が背を押す。補給隊の老兵が振り返って帽子を取り、深く頭を下げた。
「この道があれば、冬が越せる」言葉は短いが、重さは暖かかった。
宗廟の若い立会がそれを見て、小さく息を吐いたのを私は見逃さなかった。彼の足の“1”が、わずかに軽くなっていた。砦へ戻る前、喉の上の岩に印を刻む。儀ではない。合図だ。——「零を打ってから、渡れ」。石に線を二本、浅く引き、横に小さく丸。丸は、人。線は、道。下手な字だが、伝わるはずだ。
砦に着くと、書記官が道の記録を求めてきた。地図の余白に「風向:午後は西→東」「落石点:三箇所(印)」「零推奨:入口・中央・出口」と書き、隊の通過時刻を付す。書記官は驚いたように目を上げ、「数字の代わりに合図が多い」と笑った。
「数字は人に届きにくい。
合図は足に届く」夕刻、砦の中庭で、子どもたちが遊びで四拍を真似した。パン窯の主の孫だろう。私が「零」を教えると、彼らは目を輝かせ、かかとをそっと落とした。音は出ない。だが、笑いが出た。重さより笑いが、場を静かにすることもある。夜、見回りの途中で宗廟の若い立会に声をかけられた。
「その……“円”は、書で学べますか」彼は恥ずかしそうだった。
私は砂に小さな円を描き、交点に零、外に和、と書いた。彼は真剣に頷き、「儀にも、こういう教え方があれば」と呟いた。砦へ戻る道すがら、カザンが低く言った。
「八の“留・散”を急ぐな。
——お前の零は、隊の底だ。底が先だ」底。私はその言葉を繰り返し、足裏で一度、零を打った。谷の風は背中に柔らかく、遠くで雲が崩れた。発令は重い。だが、足は二本。拍は、数えられる。王都から遠く離れた空の下で、私はようやく、灰の名の重さを自分の足で受け始めていた。




