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第01話 「火刑台の四拍」

 薪が軋み、油の匂いが喉を焼いた。目を開けるより先に、足裏が板のささくれを拾う。ざらり、と。息が勝手に浅くなるのを、数で押さえ込む。——ぜろ。視界が上擦った光で満ち、次に人の影で縁取られた。石造りの広場。木組みの台。縄で縛られた両手。前方には、焔の上で揺れる鉄の輪。火刑台。都市の壁の内側に、鈍いざわめき。


 誰かが私の名を呼んだ。


「レン」。


 思考が現代の日本語で走り、口が別の言葉を覚えている。ふたつが一瞬ぶつかり、足の親指に痛みが落ちた。木の刺。痛みは現実を連れてくる。桐生廉。前世の名は、それだ。照明の眩しさ、木床の汗の匂い。剣道場の夜。数える癖。四拍で落ち着く癖。——今の私は、レン・アッシュレイン。灰王子。灰は、罪の色だという。


 王都炎上の“贖い”として、私は焼かれる。


「誓約の火、ここに——」宗廟の男が聖句を紡ぎ、鈴が鳴った。


 音は綺麗だが、拍が悪い。足裏の底で、別の鈴がかすかに鳴る。私の体のどこかに、印がある。灰紋。皮膚の内側から熱が滲み、脈が速まる。火が舌を伸ばす前に、私は息を底まで落とした。ゼロ。——1。右足の指で板を探り、最小の踏み。肩の力が降りる。2。言葉を喉の奥で転がす。古い詞。師も師範もいないのに、体が知っている。3。


 刃の位置は——ない。縄だ。なら、空気を切れ。四拍の舞節を、足裏で刻む。起動の四拍。声は、火の前で小さく。風の詞を短く切って重ねる。


かるはら」——音が足から背骨まで通り、胸の前でまとまる。


 空気が一枚薄くなり、焔の舌が逸れた。熱が頬を撫で、髪の先が焼ける匂い。縄の繊維が一瞬緩み、私は肩を捻った。係の男が驚いて手を伸ばす。視線の端で、黒い衣の枢機卿がわずかに眉を動かした。鈴がもう一度鳴る。拍を奪いにくる音だ。足裏で反対側の板の節を踏み、零を挟む。呼吸の底で、間を一つ置く。可変拍。拍は、奪わせない。


「やめろ!」


 誰かの叫びが火に飲まれ、灰に飲まれ、空へ昇る。私は膝を前に送り、台の端へ体を寄せた。足枷はない。四拍をもう一度——いや、六拍に伸ばす。拡張の六拍。声は小さく、指は速く。


「軽・払・切・抜・」。


 空気が私の前で渦を描き、火の筋が逸れて床板を焦がす。縄の焼け目が深くなり、左手首の皮膚が悲鳴を上げる。痛い。だが、切れる。縄が弾け、私は転がった。台の端から落ちる前に、誰かの腕が私の服を掴む。女の手。硬い掌。引き戻される。頬に草の匂い。彼女は耳元で囁いた。


「足の拍、崩すな」目の前に、灰色の瞳。


 短く切られた髪。胸元に風の紋の留め具。ミリア・ヴォルン。宮廷剣舞師の徒弟。彼女の足は、私の足の外側で同じ拍を踏んでいる。4。5。6。拍が揃い、呼吸が落ち着く。


「逃げる?」


「逃げない」答えは口より前に足がした。


 台の逆側、階段に向けて体を返す。係の男が槍を突き出し、鈴の音が鳴る。拍が二つ、削られた。私の膝が一瞬空を踏む。ミリアの手が肩を叩く。零。足裏に戻る。——1。


「風の四拍、貸す」ミリアの声は低く、短い。


 彼女の足が私の拍に重なり、声が私の喉の奥に滑り込む。


「軽・払・切・抜」。


 斜めからきた槍の穂先が空気に引っかかり、角度がわずかに変わった。私は一歩、踏む。板が鳴る。足の裏に、剣の柄の感触がない。だが、手の中には——熱い空気の棒がある。風の刃は短い。なら、短く切る。穂先を払い、腕で受け、肩で流す。足の裏で四拍を刻むたび、空気の刃が指先に集まる。係の男の目が一瞬泳ぎ、私は胸の内で数を増やす。


 六拍。渦で広げて、下へ落とす。槍の柄が床にぶつかり、音が大広場に響いた。鈴の音が三度、苛立って鳴る。枢機卿の手が動く。


「レン!」


 名前は、昔のそれとは違う。だが、呼び戻す力は同じだ。ミリアが私の手首を引き、台の階段を二段飛ばしで降りる。広場の群衆が揺れ、石畳が熱で霞む。視界の左に、黒い外套の影。鈴は、ここ以外でも鳴っている。合図を奪う者たち。拍を乱すために、音を増やしてくる。私は息を底に落とし、零をもう一度打った。世界が一瞬、薄くなる。


 足裏で拾う板の節、石畳の段差、ミリアの踵の位置。数と合図が、戻ってくる。右へ。左へ。人の波の隙間。火の匂いが遠のき、代わりにパンと脂の匂い。市の通りだ。角を曲がったところで、前から槍の先が覗いた。三本。門兵。彼らの足も拍を知っている。整っている。ミリアが私の前に一歩出る。


 彼女の膝が弾み、手のひらが私の胸の前で一度だけ開閉した。——六。拡張。風の舞節を彼女に預け、私は土の詞を短く刻む。


かたかえ」。


 足元に薄い硬さが走り、石の隙間が詰まる。槍の突きが早くなり、私は半拍だけ遅らせて右足を置いた。穂先が石に擦れ、火花が散る。ミリアの横薙ぎの風が、その火花ごと穂先をさらう。門兵の一人が目を見開いて後ずさる。その隙に、ノワと呼ばれる小柄な影が路地から飛び出し、兵の腰紐を引いた。彼女は笑っている。場を軽くする笑いだ。


「遅いよ、灰王子。


 拍、合ってる?」


「今は、合ってる」私は答え、呼吸の底で零を打ち、次の一へ踏み出した。


 背後で鈴がまた鳴る。枢機卿の鈴は、広場に残ったままだ。だが、もう一つ——路地の高い場所から、別の鈴が、もっと悪い拍で鳴った。私の皮膚の内側の灰紋が、嫌な熱で脈を打つ。ミリアが短くだけ、横目で私を見る。


「聞こえる?」


「聞こえる。


 ——合図を、奪いに来てる」路地の突き当たり、二階の木戸がわずかに開き、黒い面が覗いた。口の穴から、ねばつく囁き。拍を粉にするための音。私は舌の付け根を一度噛み、数をひとつ、ズラした。零。——1。火は背後で唸り、灰は風に舞い、剣はまだ鞘にない。だが、拍は、足の裏にある。私は歩幅を半歩広げ、木戸へ視線を向けた。


 面の向こうの誰かが、気づく。こちらの拍が、奪えないことに。次の瞬間、木戸が内側から閉まる音がした。行ける。私はそう思った。逃げるためではない。取り戻すために。灰の名と、舞の合図と、焼かれた街の時間を。——そして、その時はまだ知らなかった。私の灰紋が、六拍の先、八拍で別の“代償”を要求することを。


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