4:笑顔
祈祷室には再び静寂が落ちる。
「ヨルミリア」
顔を上げれば、カイルがこちらを見つめている。
カイルはいつも通りに戻っていて、ヨルミリアは少しだけ惜しいことをしたような気分になった。
「……少し外の空気でも吸いに行こうか」
カイルは黙って手を差し出してきた。
一見無表情だが、わずかに指先が緊張しているように見えた。
その手を、ヨルミリアはじっと見つめる。
握手をしたことはあるけれど、手を差し伸べられたのは初めてのことだった。
「……はい」
少し考えたあと、ヨルミリアはそっとカイルの手の上に指先を添えた。
歩きながら、2人の間に会話はなかった。
だが、カイルは歩調をぴたりと合わせていた。決して先を急がず、時折ヨルミリアの様子を静かに窺う。
神殿の外に出れば、回廊の白いカーテンが春の風に柔らかく揺れていた。
カイルの隣を歩くヨルミリアの髪が、同じ風にそっとなびいた。
時折吹く風が、2人の距離を測るかのようにそっと間を通り抜けていく。
「……少しは、元気出たか?」
「え?」
カイルがようやく口を開いた。
静かな問いかけだったが、その声音にはどこか気遣いが滲んでいる。
ヨルミリアは、ハッとしたように顔を上げた。
「もしかしてって思ってたんですけど、やっぱり、私のこと慰めようとしてくれてます?」
「……そういう時は、黙って受け入れるものだぞ」
ヨルミリアの問いに、カイルはため息交じりに答える。
だがその吐息は、どこか優しくもあった。
「さっき『頑張る』と言っていたが、ヨルミリアは十分よく頑張っているよ」
「えっ、と……」
優しい声に、ヨルミリアはぱちりと瞬きをする。
頭の中が一瞬、空白になる。まるで想定していなかった褒め言葉に、戸惑いが胸を掠めた。
カイルは真っ直ぐに、ヨルミリアを見つめていた。
「真面目に向き合ってる奴の“自分なり”を、未熟だとか浅いとか言うのは、簡単だ。誰にでもできる。……でも、“自分なり”にすら向き合えない奴の方が、よほどどうしようもないんだ。君はちゃんと頑張っている。俺には、そう見えてる」
「あ……」
ヨルミリアの目が揺れる。
その言葉は、安易な慰めではない。責任も、重みも、静かに含まれていた。
「……ありがとうございます」
小さく絞り出した声は、かすかに震えていた。
でもそこには、確かな想いがこもっていた。
どうしてこの人は、こんなにも優しくしてくれるのだろう。
いつもは冷たい瞳をしているくせに、こんな時ばかり。
どうして────。
ふと、カイルが小さく笑う。
「……俺もな、自分の立場に息が詰まりそうになる時がある」
「え……?」
「王子って肩書きは便利だけど、それだけじゃ何もできない。自分がどう在るべきかなんて、誰も教えてくれないからな」
カイルの口調は軽いのに、言葉には妙に実感がこもっていた。
「逃げたくなる瞬間は、俺にもある。でも、君は逃げなかった。そんな君を、俺は────ちゃんと尊敬してる」
ヨルミリアは思わず息を呑んだ。
彼が、自分と同じように苦しんでいること。
そしてそのうえで、ヨルミリアを見ていてくれたこと。
そのことに、胸の奥がじんわりと熱くなったのだ。
どんな言葉を返したら、この気持ちがきちんと伝わるのか。ヨルミリアは考えていた。
だけど、ヨルミリアの答えが出る前に、カイルがぽつりと呟く。
「……今、少しだけ笑ったか?」
「えっ……?」
ヨルミリアは驚いて視線を逸らした。
「い、いえ、笑ってなんて……!」
「いや、笑ってた。俺は見逃さないぞ」
「嘘です、見間違いです」
「いーや、絶対に見た」
カイルは、どこか得意げな口調で言う。
普段の彼からは想像できないような、優しい声音だった。
本当のカイル殿下は、どんな人なんだろう。
疑問は拭えない。でも、このまま傍にいたら、いつかわかるのかもしれない。
そう思うと、この時間も悪くはなかった。
そっと目を伏せると、ヨルミリアは静かに呟く。
「……あの、もう少しだけ、このまま……ここにいてもいいですか?」
言ったあと、ヨルミリアは慌てたように顔を上げる。
「へ、変なことを言ってたらごめんなさい。忘れて──」
「好きなだけいればいい」
カイルが、遮るように言った。
その声は穏やかで、けれどどこか強さを孕んでいた。
ヨルミリアは目を見張り、そしてふっと、小さく笑った。
自然と浮かんだ微笑みだった。
その笑顔を、カイルは黙って見つめていた。
柔らかな陽光が回廊の石床に斑模様を落とし、風に揺れるカーテンが、ふたりの間で小さく揺れた。