10:プレナップ・ダウト(前編)
その日の夜、ヨルミリアは緊張した面持ちでドアの前に立っていた。
空は深い紺色に染まり、月明かりがかすかに廊下を照らしている。
胸の内でざわつく感情をどうにか抑えながらノックをしようとして、そして両手でお盆を持っているせいで扉を叩けないことに気づく。
お盆の上にはリーナが丁寧に淹れてくれたお茶と、ささやかなお茶菓子が載せられていた。
「……」
右を見ても、左を見ても、誰もいない。
それもそうだ。
目の前にあるのは、カイルの部屋へとつながる扉なのだから。
用もないのにこの辺りをうろついていたら、怪しく見えてしまうだろう。
「ど、どうしよう……」
小さく呟くヨルミリアの声は、静かな空間に小さく響いた。
あまり褒められた行為ではないが、一度お盆を置いてノックをしようか……そう思ったところで、何故か扉が開いた。
パッと見上げれば、そこには驚いたように目を丸くしたカイルの姿があった。
「ヨルミリア? どうした、こんな時間に」
彼の声には、多少の戸惑いが混ざっていた。
ヨルミリアはたどたどしい口調で、訪問の理由を口にする。
「えっと、ちょっと、お話したくて。入ってもいいですか?」
「あ、ああ……」
カイルは若干挙動不審になりながらも、部屋の中にヨルミリアを招き入れた。
部屋の中はスッキリしていて、物が少なかった。
家具の色味もシンプルなもので、カイルらしい部屋だとヨルミリアは思う。
物珍しさにしばらくキョロキョロしてしまったが、お盆の存在を思い出したヨルミリアは、ローテーブルの上にお盆を置かせてもらった。
「リーナに淹れてもらったんです。このお茶」
「そ、そうか……」
「ずっと前に、殿下もお茶の差し入れをしてくれたでしょう? それが嬉しかったので……」
「……」
照れくささが滲みながらもヨルミリアはそう言ったが、カイルの返答はない。
小首を傾げながらカイルの方を見れば、彼の視線はお茶に向かい、なんとも言えない戸惑いを漂わせていた。
その後もどこか落ち着かない様子でうろうろと視線は彷徨い、ヨルミリアと目が合ったかと思えばパッと逸らされる。
ヨルミリアは不思議そうな顔をして、カイルに問うた。
「殿下、なんだか様子がおかしくないですか?」
「え?」
「やっぱり、タイミングが悪かったですか? もしそうなら、日を改めますので……」
「ま、待ってくれ、違う!」
ヨルミリアの言葉に、カイルは少し焦ったように手を挙げて遮った。
突然の反応に、ヨルミリアは驚く。
「ど、どうしたんですか急に」
「ヨルミリア、君は誤解している」
「何をです?」
その言葉にヨルミリアは眉を寄せ、じっとカイルを見つめる。
誤解、と言われても。
どういうことなのか、全くわからなかった。
ヨルミリアの真っ直ぐな視線を前に、カイルは一呼吸置いてから真剣な表情で言った。
「君が俺の部屋にくるのは、初めてだろう?」
「……そういえば、そうかもしれません」
カイルの言葉に、ヨルミリアは素直に頷いた。
普段はいつもカイルが先にヨルミリアの元へ来てくれていた。
だから自分から彼の部屋に訪ねることなど、考えたこともなかったのだ。
だけど、それがなんだと言うのだろう。
「ヨルミリアにはわからない感覚かもしれないが、好きな人が自分の部屋にいるというのは、とても緊張するものなんだ」
「そう、なんですか……」
「しかも俺のために淹れたお茶を持って、こんな夜遅くに、無防備な状態で来たとなれば、余計に緊張してしまう」
「は、はあ……」
ヨルミリアはなんとも言えない表情で、曖昧な返事をした。
正直よくわからない。よくわからないけれど。
カイルの真剣な表情に、気圧されてしまったのだ。
余計なことは言わないほうがいい。
そう判断したヨルミリアは、話を逸らすことにした。
「とりあえず私に帰ってほしいわけではないのなら、お茶、飲みません?」
「ああ、そうだな」
ローテーブルの近くの、触り心地のよさそうな椅子に腰かける。
ゆっくりとお茶を口にすれば、それはまだ温かさを残していた。
お茶菓子の甘さもちょうど良くて、ヨルミリアは肩の力が抜けていくのを感じていた。
それはカイルも同じだったのだろう。
お茶を飲んで落ち着いたのか、カイルが言いづらそうに話し出した。
「……先程は、情けない部分を見せたな」
カイルの言葉に一瞬驚いたが、ヨルミリアはすぐに首を振った。
「そんなことないですよ」
「だが……」
「殿下はいつでもカッコいいので、大丈夫です」
ヨルミリアはさらに微笑んで、その言葉を伝えた。
少しずつ素直な気持ちを伝えられるようになったことが、嬉しかった。
「むしろ、私のほうが……」
「え?」
言葉を切ったヨルミリアに、カイルは不思議そうに顔を向ける。
彼の大きな瞳がじっと自分を見つめているのがわかった。
「私、殿下に甘えたくて、会いに来たんです」




