2:聖女の重圧
荘厳な神殿の奥、薄暗い祈祷室には、張り詰めるような空気が満ちていた。
ヨルミリアは白い祈祷衣に身を包み、祭壇の前にひざまずいている。手を組み、目を閉じ、心の中で祈りの詞を唱えていた。
訓練ではあるものの、祈祷の所作は淀みなく、そして誠実だった。
けれどその祈りの途中でさえ、胸の奥には微かな緊張が灯っていた。
……今日こそ、何かを言われるかもしれない。
そんなことを考えている間に時間は過ぎ、やがて時間を告げる鐘が鳴る。
「祈りを終えます」
小さく呟いて立ち上がったヨルミリアの背後から、静かな足音が近づく。
「形式だけは立派ですね。けれど、それだけで務まるものではありませんよ」
「……ラフィール様」
低く、張りつめたような声。
振り返るとそこには白銀の髪を結い上げ、淡い水色の法衣を着た神官────導師ラフィールが立っていた。
年齢は30手前ほどだろうか。整った顔立ちは氷のように冷たく、青い瞳がまっすぐにヨルミリアを射抜いている。
「貴女が“選ばれし聖女”である以上、我々は従います。しかし……その自覚と覚悟が伴っていないように見えるのは、私の気のせいでしょうか?」
「自覚がないとは思っていません。ただ、私にはまだ、学ばなければならないことが多く……」
「その“多さ”の程度を、貴女自身が理解していないことが問題なのです」
祈祷訓練自体は学ぶ部分も多いが、ラフィールの言葉はいつも鋭く容赦がない。
だからか、どうしても不安だったり自信のなさが覗いてしまい、ヨルミリアは委縮してしまうのだ。
口をつぐんだヨルミリアを横目に、ラフィールは言葉を続ける。
「神託により聖女として選ばれた────それは確かに名誉でしょう。しかし、貴女の立場はただの偶然ではありません。国政、宗教、外交……これからはすべてにおいて影響力を持つ存在となるのです。適当な意識で務まるものではありませんよ」
決して責めるような声音ではない。
けれど、冷ややかな口調は、ヨルミリアの胸に重くのしかかった。
わかってる。全部、頭ではわかってる。
けれど……。
何かを言おうとしたけれど、結局ヨルミリアはそっと唇を結んだ。
「…………自分なりに、精一杯努めてはいます」
「“自分なりに”では足りません。聖女は、“他者に求められる水準”で存在しなければならないのです。特に、このノアティス王国においては」
その瞬間、ヨルミリアの肩が小さく揺れる。
第一王子と聖女の結婚。
それを何百年も続けてきた国なのだから、この国での聖女の力は他国とは比較にならない。
力を持つ分、当たり前だが求められる水準も高いのだ。
確かに、ラフィールの言葉は間違っていない。
けれどそもそも、ヨルミリアは来たくて来たわけではないというのに。
ヨルミリアだって、逃げたいわけじゃない。
投げ出したいわけでもない。
だけどまだこの国に来て2週間やそこらなのに、なぜこんな風に言われなければならないのか。
「……っ」
唇を噛みしめる。言い返したかった。
けれど神殿における彼の権威は強く、それを跳ね返すには、ヨルミリアにはまだ力が足りなかった。
「心を込めていたと、貴女は言うかもしれません。けれどそれは“込めたつもり”でしかないのです。覚悟とは、他人が見てわかるもの。今の貴女には、それが見えな────」
ラフィールが言葉を紡ぎ終えるよりも早く、礼拝堂に鋭い足音が響いた。
それは冷静で、誰よりも意志の強い者の足取りだった。
静けさを切り裂くように、扉の奥からカツカツと足音が近づいてくる。
反響するその音は、ただの訪問者のそれではなかった。
まるで、場を制圧するかのように────王の器を感じさせる、静かな威圧。
やがて、扉が開く。
逆光の中から現れた男の姿に、ヨルミリアは瞬時に息を呑んだ。
「そのあたりで止めておいてもらおうか」
低く、しかしよく通る声が、空気を裂いた。
その瞬間、場の空気が一変した。
まるで冬の空に陽光が差し込むように、厳しく冷えた緊張が解けていく。
カイル殿下。ヨルミリアは声に出さずに呟く。
儀礼服ではなく、より動きやすい上着に身を包んだ彼は、ゆっくりと祈祷室へと歩み入る。
ラフィールの氷のようだったその顔に、わずかに困惑の色が浮かんだ。
ヨルミリアはその場でただ息を呑んだまま、目を見開いていた。
来てくれた……。
静けさの中、カイルの存在だけが確かな温度を持ってそこにあった。