21:王子として、1人の男として
彼女が姿を消した時、頭の中を幾通りもの最悪の可能性が駆け巡った。
ヨルミリアは聖女であり、第一王子である自分の婚約者である。
目立つ存在だということは、つまり、狙われる存在でもあるということだ。
その名を持つだけで、人々の注目を集め、崇敬され、あるいは……利用価値を計算される存在になる。
高く掲げられた光は、それだけ狙われやすい。
それはカイル自身、骨の髄まで理解しているはずだった。
誰が相手であろうと、どんな状況であっても自分が守り抜く——そう決めていた。それなのに。
「クソッ……」
怒りと焦燥を押し殺せず、カイルは低く舌打ちを漏らした。
揺れる馬車の中、彼の眼差しは鋭く窓の外を睨みつけていた。
目指す先は、アルセリア家。
この件にヴァルターが絡んでいることは、なんとなく予想がついていた。
だが場所を絞り込むのに時間がかかってしまった。
表向きには知られていない屋敷。
裏名義で運営されている隠し場所。
金で動く傭兵の拠点。
可能性を考えれば、キリがなかった、
「殺されたのではなく連れ去られたのなら、いずれ向こうから接触があるのでは?」
隣に座っていたゼノが、静かに口を開いた。
冷静になれ。
そう言われているような気分だった。
「向こうから脅迫されるまで、ヨルミリアは捕まったままでもいいと?」
吐き捨てるように言ってしまった。
自分の声が刺々しいと気づいた瞬間、ゼノはすぐに頭を下げる。
「……申し訳ありません。失言でした」
「…………いや、今のは俺が悪い。冷静じゃなかった」
自嘲気味に言った言葉に、ゼノは何も返さなかった。ただ静かにうなずく。
カイル自身もわかっていた。
第一王子である自分が、感情に任せて動いてはいけないのだと。
ゼノの言っていることも、理屈としては正しい。
感情を排した視点からすれば、可能性の一つではあるのだから。
今すぐヨルミリアの命が脅かされてしまうわけではないのなら、向こうの出方を窺うのも決して悪いことではない。
だがそれは許容できない。
わかっている。これは第一王子という仮面を剥ぎ取った中の、カイルの感情の話だ。
「白昼堂々行われた誘拐騒ぎなんだ、遠くへヨルミリアを運ぶのは難しいだろう。そう考えると、やはりアルセリア家にいる可能性が高い。仮に何かしらの脅迫を行うつもりだとして、人質は近くに置いておきたいだろうしな」
ゼノは沈黙したままだった。彼もまた、安易な言葉を挟めないことを察していたのだろう。
少しの沈黙の後、カイルはぽつりと漏らした。
「セレナ嬢は関わっていないと思いたいが……」
「家ぐるみの犯行となれば、今後に響いてきますからね」
「あぁ、アルセリア家との間には長い歴史がある。どうにか穏便に済ませたい」
その言葉は、王子としての責任感がにじんだ言葉だった。
ゼノもまた、それを感じ取ったのだろう。目を伏せたまま、うなずいた。
やがて馬車が止まる。ゼノが先に降り、そして振り返った。
「あまり、やりすぎないようにしてくださいね」
その表情は諦めとも祈りともつかない、複雑な色を浮かべていた。
あくまでそれは王子としての言葉であり、内心はらわたが煮えくり返っていることに気づかれたのだろうか。
カイルは何も答えず、ただ扉を開け、外へ足を踏み出した。
夜の空気が、張り詰めている。
門前に立ち、ゼノとともに声をかける。
「夜分に失礼いたします。誰かいらっしゃいますか?」
何度呼びかけても、返事はなかった。
だが屋敷の中からは、微かに騒がしい気配がする。
風の音に混じって、何かが軋む音、人の足音——いや、叫び声。
「……なんだか騒がしいです」
「緊急事態かもしれん、中に入るぞ」
「え——」
「ヨルミリアが危ないかもしれない」
そう言った直後、カイルは門から距離を取り、助走をつけて一気に走り出した。
そして、ひらりと身を翻すように門を飛び越える。
「……あぁもう!」
その様子を見ていたゼノも、声を上げてその後を追う。
屋敷の奥から、声が聞こえる。
「いや、離して!」
「大人しくしろ!」
その声に、心臓が跳ねた。
頭より先に身体が動いていた。カイルの足音が、地を打つように強く響く。
声のする方へ、ただひたすらに走る。
彼女がそこにいる。助けを待っている——。




