20:泥の中で
湿った風が肌を撫でる。地の底を思わせるような暗がりの中、ヨルミリアは息を切らしながら駆けていた。
事前にセレナから教えてもらっていた抜け道。それが唯一の希望だった。追っ手から逃れる手など、それくらいしかなかった。
彼女の手の中には、小さなランプがあった。
セレナが「暗くて危ないから」と渡してくれたものだ。初めはそれを頼りに、人目を避けて入り組んだ道を走っていた。
ぼんやりとした橙色の光が、夜の闇の中の希望だった。
しかし——その小さな光が、敵を引き寄せたのだ。
「いたぞ! 追え!」
「逃がすな!」
突如として背後に響いた声に、ヨルミリアの心臓は跳ね上がった。
鋭く、荒んだ男たちの怒声。血の気が引くのがわかった。
とっさにランプを消す。
瞬間、あたりは完全な闇に沈んだ。
何も見えない。己の手さえも。
「……あっ!」
視界を失った代償はすぐに訪れた。
足が地面のくぼみに取られ、体が前へ投げ出される。
ドサッという音とともに、手と膝を強く打ちつけた。
鈍い痛みが全身を突き抜け、息が詰まる。
「っ、痛い……」
冷たい泥が、ドレスの裾に染み込んだ。
細かい石が手のひらに食い込む。
立ち上がろうとするが、膝が震えて言うことをきかない。
「殿下……」
小さく、声が漏れた。
思わず呟いたのは、カイルの名だった。
あの人の姿が、朧げに脳裏に浮かぶ。
まっすぐで、誰よりも優しくて、でもどこか寂しげだったあの人。
あの人が、この場にいてくれたら。
いや、こんな姿を見せたくない。見せたくないのに——名前を呼んでしまう。
逃げ出すことに必死だったけれど、本当にヨルミリアの足で逃げ切れるのだろうか。
逃げ出したとして、このあとは?
だって、ヴァルターがこのまま終わるとは思えない。
どんどん暗くなる思考に対し、ヨルミリアは縋り付くように何度もカイルの名前を繰り返す。
「殿下、カイル殿下……」
不安をかき消すように、何度も名前を呼んだ。
殿下なら、きっと諦めたりしない。だったら自分も——。
ヨルミリアは泥だらけの手で、壁を支えにして立ち上がった。
膝は震え、身体は痛む。それでも前を向いた。
ここで終わるわけにはいかない。
あの人が待っている。あの人に恥じない自分でいるために、立ち止まるわけにはいかない。
その後、ヨルミリアはなんとか抜け道の近くまで来た。
だが抜け道に辿り着く直前、運悪く追手と鉢合わせてしまう。
影から姿を現した追手に、ヨルミリアの喉から小さな悲鳴が漏れる。
「ついに捕まえたぞ、手間のかかる……!」
低い声と共に、腕をがっしりと掴まれた。
突然のことに身体が硬直する。
手を振りほどこうとしたが、相手の力は強い。
「いや、離して!」
「大人しくしろ!」
必死にもがく。
逃げたい、でも逃げられない。
再び恐怖が押し寄せ、目の前が暗くなりそうになる。
——だが。
そのときだった。
遠くから——いや、すぐ近くから、風に紛れて、耳に馴染みのある声が届いた気がした。
「ヨルミリア!」
その瞬間ヨルミリアは、頬に一筋の涙が流れたのがわかった。




