1:朝の時間
朝の光がステンドグラスを通し、神殿の床に静かな彩りを落としている。
ヨルミリアは執務机に向かい、今日の予定表に目を通していた。淡い青色の紙に、徐々に見慣れてきた文字が整然と並ぶ。
この国に来てまだ2週間ほどなのもあり、まだ多くの仕事を任されているわけではない。
ヨルミリアの毎日の予定は、いつも大体決まっている。
それでも何度も確認してしまうのは、ヨルミリアの性格からくるものだろうか。
「午前は祈祷訓練で、午後は……空欄ですね。謁見の予定もまだ入っていないようです」
ひとりごとのような呟きに、近くにいる専属侍女のリーナがぱっと顔を上げた。
リーナはドレープ状のエプロンを手で整えながら、明るい声で言う。
「そういえば、さっき従者さんが言ってました! 『殿下が、午後に少し時間を取りたいと仰っていた』って。たぶん後ほど、ヨルミリア様に確認に来るかと思います」
「……また?」
「はい!」
自然に漏れた声は、驚きというよりはやや困惑の色が濃かった。
第一王子────カイル・ノアティス王子は、形式上の婚約者とはいえ、最近やたらと自分を訪ねてくる。
その頻度が、どうにも気になってしまうのだ。
誰にも言っていない、2人だけの秘密だけれど。
カイルとヨルミリアは、円満な婚約解消を目指して手を組んでいる。
だからこそ、単なる礼儀や王族としての責任からの行動にしては、少しばかり過剰すぎる気がした。
「殿下、お忙しいはずなんですけどね……私、ちょっと意外だなって思いました」
「……ええ。でも、ありがたいことかもしれないわ」
「ちょっぴり冷たい印象でしたけど、案外優しい方なんですねぇ」
リーナの言葉に、ヨルミリアはふむ……と思案顔になる。
何も言わないヨルミリアに、リーナは慌てたように言った。
「あっ、別に冷たいって、悪口ってわけじゃなくて……!」
「気にしないで、私も同じような第一印象だったし」
「きっと、ヨルミリア様がお相手だからお優しいんですよ! 神託で結ばれたとは思えないくらい、殿下はヨルミリア様に向き合ってるように見えますもん」
「……そうかしら」
リーナが跳ねるような声で言う。
別にそういう関係ではないのだが……とは思ったものの、婚約解消を目指していることは秘密なので、ヨルミリアは曖昧な表情で返事をした。
カイルと自分が結んだ婚約には、表向きの義務と責任がある。
ゆくゆくは解消を望んでいるとしても、みだりに人に言うことではない。
その時、控えめに扉がノックされた。
軽やかな音に、ヨルミリアは小さく頷いてから『どうぞ』と答える。
「失礼いたします」
現れたのは、整えた黒髪と礼儀正しい所作が印象的な青年────ゼノだった。
彼はカイルの従者であり、腹心の部下である。
「殿下より、“もし午後にお時間が許されるようであれば、お話しできれば”とのお申し出がございました」
ゼノの声は冷静で、無駄のない言葉で告げられる。
ヨルミリアは少し考え込むように視線を下ろし、また静かに顔を上げる。
「午後……予定は空いておりますので、構いません」
「ご配慮に感謝いたします。殿下も、きっとお喜びになるかと」
ヨルミリアがそう言えば、ゼノは深く頭を下げた。
表情には、わずかな安堵が浮かんでいたように思えた。
ゼノはゆっくりと背を伸ばし、立ち去ろうとする。が、扉を開ける寸前でふと立ち止まり、静かに言葉を添えた。
「どうかご無理のない範囲で。あくまで、“お時間が許せば”とのことでしたので……殿下なりの配慮かと」
「……ありがとうございます」
その言葉を最後に、ぱたりと扉が閉まり静けさが降る。
ヨルミリアは立ち上がり、窓の外へと移動した。眼下に広がる庭園を眺めながら、ヨルミリアはぼんやり考える。
私のスケジュールを気にしてくれるのが配慮なら、殿下が私をよく訪ねてくるのも配慮?
全ては婚約者として、形式的にやっているだけ……?
もしこれが全部カイルの義務感なのだとしたら、少し寂しく思ってしまうのは我儘だろうか。
「ヨルミリア様? 大丈夫ですか?」
「あ……大丈夫よ。少しぼーっとしてしまっただけ」
「そうですか? 何かあったら、遠慮なく言ってくださいね!」
リーナはいつも笑顔で、小さなことにも気を配ってくれる。
他国から来たヨルミリアが快適に過ごせているのは、リーナのおかげだった。
リーナがまとう雰囲気は明るいものだったが、どこかこちらを気遣うような視線を向けている。そんなリーナに、ヨルミリアは『心配ない』という気持ちを込めて微笑みを返した。