19:脱出
夜になったらまた来る。
そう言っていたセレナは、宣言通り夜更けの静寂の中で再び部屋を訪れた。
月の光が窓の格子から差し込み、部屋の中に淡い影を落としている。
その光の中に、夜用の白いドレス姿のセレナがそっと現れる様は、まるで夢の中の出来事のようだった。
部屋の扉が開く音に気づいたヨルミリアが身を起こすと、セレナは静かに微笑んだ。
「……見張りは大丈夫でしたか?」
ヨルミリアがそう尋ねると、セレナは少し得意げな顔をした。
「『この部屋に聖女様がいらっしゃるのは知っています。少し、お話がしたいのです』と言って正々堂々突破してきましたわ」
その言い草に、ヨルミリアは小さく笑った。
「セレナ様は、肝が据わっていらっしゃるんですね」
「聖女様ほどではありません。それにこういう時は、変に取り繕うより正面突破のほうが案外上手くいくものですから」
セレナはそう言いながら、持参した袋の口をほどいた。
中から取り出したのは、しっかりと編まれた長いロープだった。
「これを使って、下まで降りてください」
窓からの脱出はヨルミリアも考えていたものだった。
最悪普通に飛び降りようと思っていたが、ロープがあれば大きなケガをせずに降りられるだろう。
「セレナ様は、これからどうなさるのですか?」
「わたくしは偽装工作をしてから、普通に部屋に戻ります」
「偽装工作?」
ロープを手にしながらヨルミリアが問うと、セレナは部屋の奥にあるベッドへ視線をやった。
「ベッドの中に毛布や枕、詰め物をして、聖女様が寝ているように見せかけます。見張りは部屋の奥まで入ってこないでしょうから、時間は稼げるはずです」
「ありがとうございます……!」
思わず感謝を伝えると、セレナは視線を逸らし少しだけ瞳を伏せた。
「……これは、聖女様のためではありませんわ」
その声は静かで、けれどどこか苦しげだった。
「お兄様がこんなことをしたなんて……未だに信じられません。わたくしはたしかに殿下をお慕いしております。ですが、殿下が胸を張って未来を歩くための障害にはなりたくないのです」
セレナの言葉に、ヨルミリアはなんと返せばいいのかわからなかった。
ヨルミリアが言葉を探しているうちに、セレナは話を続ける。
その瞳は、真剣なものだった。
「全ての感情の整理が、できたわけではありません。ですがわたくしは、殿下に顔向けできないようなことはいたしません。それがわたくしの、矜持です」
まっすぐに語られる信念。
哀しみも未練も抱えたまま、それでも正しいと思う行動を選び取るその姿に、ヨルミリアは思わず言葉がこぼれた。
「セレナ様は、カッコいい人ですね」
「……どうせなら、美しいとか言われたかったですわ」
セレナはふいに視線を逸らし、ふくれっ面で小さく呟いた。
その子どもっぽい拗ね方が妙に可愛らしくて、ヨルミリアは思わずくすりと笑ってしまった。
セレナが柱にロープを結びつけ、強度を確認する。
ヨルミリアはその様子をじっと見守っていたが、いよいよとなってロープを握ったとき、思わず手が震えた。
これから自分は、この屋敷から逃げ出すのだ。
ヴァルターはヨルミリアに対し「危害を加える気はない」と言っていたものの、ここまでしてしまってはどう転ぶかわからない。
捕まるわけには、いかないのだ。
「セレナ様……本当に、ありがとうございました。お礼は後日、きちんといたします」
「いいから、早く行ってくださいませ」
セレナは表情を引き締め、毅然とした声で言った。
その一言が、決意の後押しになった。
ヨルミリアはロープをしっかりと握りしめ、一気に身体を乗り出した。
瞬間、重力が身体を引っ張っていく。風が髪を乱し、夜の空気が肌に突き刺さる。
「はぁ、はぁ……」
必死にロープを握りしめ、途中で足を壁に押し当てながら慎重に、しかし急いで降りていく。
ようやく地面にたどり着いたとき、手のひらは真っ赤に擦れていた。
ところどころ、皮膚が剥けて痛む。
それでも、痛みなど今はどうでもよかった。
見上げれば、窓の中からセレナがこちらを見ていた。
目が合った瞬間、ヨルミリアは小さく頷く。セレナも、こくりと頷き返した。
その合図を最後に、ヨルミリアは夜の闇へと走り出した。




