18:歪み
黙り込んだセレナを前に、ヨルミリアは何も言わず彼女が口を開くのを待っていた。
目の前の沈黙にじっと耐える。空気は重く、張り詰めた糸のように繊細だった。
セレナの表情はどこか険しく、そしてどこか揺れていた。
冷静を装っていても、瞳の奥に揺れる迷いは隠せない。
彼女が何を思っているのか、ヨルミリアには分からなかった。
けれど、何かを決意しようとしているのは伝わってきた。
「…………聖女様」
セレナはしゃがみ込み、ヨルミリアに手を差し伸べた。
その手は優しさに満ちていて、確かな決意が込められていた。
差し出された白く小さな手を見つめ、ヨルミリアはゆっくりと顔を上げる。
そして、セレナの顔を見た。
真剣な眼差しだった。
もう迷いはない。そう語っている瞳だった。
「あと少しだけ、耐えていただけませんか?」
「……え?」
「支度を整えて、夜になったらまたこの部屋に参ります」
その言葉に、ヨルミリアは目を見開いた。
予想だにしない展開に、思考が一瞬止まる。
「何を言って……」
「聖女様を逃がすための支度ですわ」
その一言が、ヨルミリアの心に衝撃を与えた。
ずっと冷たく、距離を置いていたセレナが、なぜ突然そんなことを――?
「ど、どうして」
「兄が制度の歪みをなんとかしようとしているのは、間違っていないと思っていました。だからといって、誘拐騒ぎを起こすのは違うと思います」
その言葉に、ヨルミリアは思わず眉をひそめた。
「制度の歪み……?」
呟くように問うと、セレナは小さく息を吐き、何かを覚悟するように目を伏せた。
そして再び顔を上げる。
「わかりました、手短にですがお話しします」
「ですが、いずれ見張りの方が戻ってくるのでは……?」
心配そうに言うと、セレナはかすかに微笑んだ。
その微笑には皮肉も恐れもない。ただ、静かな信頼があった。
「兄はあくまで、この件をわたくしに知られることを避けたかったんだと思いますわ。わたくしがこのことを知っていて、尚且つ肯定的な態度を見せたなら、仮にこの場を見られても切り抜けられるはず」
そう言ってセレナは立ち上がり、部屋の隅に置かれていた椅子に腰を下ろした。
その仕草にどこか余裕が見えたのは、覚悟を決めた人間の強さゆえだろうか。
セレナは静かな声で、ぽつぽつと話し始めた。
「お兄様は宣託によって殿下の相手が決まる今の制度を、変えようとしていました。そして主に、3つの歪みを上げていらしたわ」
「3つの歪み?」
「聖女選定の不透明さ、聖女の公務の不自然さ、聖女の自由意思の剥奪の3つです」
ヨルミリアは無言で耳を傾けた。セレナの声は、今までになく落ち着いていた。
「1つ目については、殿下の婚約者は神託によって選ばれているとされていますが、神官たちの思惑や貴族の圧力で決められている可能性があるのではないかと兄は考えていますわ。2つ目については、聖女の仕事はあくまで祈りの儀式が中心のはずが、王族の監視下での行動制限や公務参加が多いのではないか――と兄は仰っていました」
セレナの言葉は冷静だった。
ヨルミリアは大人しくセレナの言葉の続きを待つ。
「そして3つ目……。聖女は制度上、王家と結びつくことで『名誉ある存在』となりますが、実際は半ば幽閉に近い状況です。神託とはいえ聖女の意思を無視していいのか。というものですわ」
話を聞き終えたヨルミリアは、しばしの沈黙の後、小さく呟いた。
「……こうして聞いていると、ヴァルター様はとてもまともなことを仰っているように感じます」
「えぇ。昔からの決まりを重んじる派閥と、革新派で意見が割れているだけで、兄はとても優秀な方なのよ」
そう言って微笑むセレナは、ふと少女のような柔らかさを見せた。
その笑顔に、ヨルミリアの胸がきゅっと締めつけられる。
「……セレナ様」
「何かしら?」
「もしこの話を婚約したてのタイミングで聞いていたのなら、私はきっと、ヴァルター様を支持していたと思います」
「え?」
セレナの瞳がわずかに揺れる。
それでも、言わないといけないと思った。
ヨルミリアの中に生まれている、感情の変化を。
「でも今は……殿下と婚約を解消したくないと考えているのです」
その言葉に、セレナははっと息をのんだ。
ヨルミリアの頭の中には、カイルの姿が浮かんでいる。
まだ誘拐されてから、1日と少し。誘拐といっても、部屋から出られないだけで特別ひどい目に遭っているわけでもない。
それでも、寂しくて仕方がなかった。
助けに来てくれると信じていても、ふとした瞬間に「もう二度と会えなかったらどうしよう」と不安になってしまうのだ。
もう二度と会えないならば、言っておきたいことがたくさんあったのに。
なんて考えては、ふるふると首を振って暗い感情を追い出した。
カイルに会いたい。顔が見たい。
傍にいたい――。
「それって……」
「セレナ様がきちんとお話ししてくれたので、私もお伝えしようと思いました」
「……」
「それが、誠意というものだと思ったんです」
心の奥に浮かんだ想いを、ヨルミリアは正直に言葉にした。
決して理屈ではなく、ただ心がそう叫んでいた。
セレナは、しばらく黙ってヨルミリアを見つめていた。
そして、静かに頷いた。
「……聖女様がどのようなお気持ちでも、わたくしの意思は変わりませんわ」
その声はやわらかく、しかし揺るぎない。
この夜2人の少女は、それぞれの信念を抱えて向き合っていた。




