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15:ヴァルター・アルセリア

 その男は、徹底的に品の良い服装をしていた。

 目を覚ましたヨルミリアは最初、その男を誘拐犯とは思わなかったほどだ。


 ヨルミリアはぼんやりと瞳を瞬かせた。次第に意識がはっきりしてくる。

 目に映るものが形を成し、彼女はゆっくりと上半身を起こした。


 部屋は静かだった。重厚なカーテンが窓を覆い、外の気配を感じさせない。

 室内には高級な香油の香りが微かに漂い、豪奢な装飾が並んでいる。

 ふかふかの寝台、緻密な刺繍の施されたクッション、手の込んだランプの細工——そのどれもが、貴族の屋敷の中でも上位の者しか持たない物だった。


「ここは…………」

「お目覚めですか。お迎えに上がれず失礼しました、聖女様」


 すぐ傍の椅子に、男が静かに腰を掛けていた。

 長身で細身、癖のない紅茶色の髪と、どこか醒めた涼しげな瞳。

 柔らかな笑みを浮かべた口元には敵意がなく、むしろ礼儀をわきまえた貴族らしい気品すら漂っていた。


 だが、だからこそヨルミリアは小さく息を呑んだ。

 直感が告げていた。この男は——危険だ。


「……あなたは、誰ですか」


 警戒を隠さず問うと、男はゆっくりと立ち上がり、優雅に一礼した。


「自己紹介が遅れました。私はヴァルター・アルセリア。公爵家の長男です」

「アルセリアって…………」


 その名を聞いた瞬間、ヨルミリアの全身から血の気が引いた。

 アルセリア家の長男ということは、つまり、セレナの兄ということである。そして、カイルとの婚約を巡って、警戒を怠れない相手ということだ。


 じゃあここは……アルセリア家……?

 そう考えたヨルミリアは、サッと青ざめた。


 拘束はされていなかった。

 腕も足も自由で、部屋には鍵がかかっている様子もない。


 けれど、それは“逃げられない”と見抜かれているからに他ならない。

 自分ひとりではどうにもならない——そう判断されたのだ。


「どうして、こんな真似を?」


 ヨルミリアは静かに尋ねた。怒りよりも困惑が勝っていた。

 ヴァルターは肩をすくめ、まるで子供のわがままを諭すような口調で答えた。


「真似? これが“真似事”に見えるなら、それは聖女様がまだ、世界の実情をご存じないからですよ」

「……どういう意味です?」


 ヨルミリアは眉をひそめる。

 ヴァルターは依然として笑みを崩さなかったが、その瞳には凍りついたような冷たい光が宿っていた。


「聖女制度の歪み。あなたも気づき始めているでしょう? だからこそ、このまま王家に取り込まれてはいけない。あなたには、あなたの“使命”がある」

「……誘拐なんて犯罪をしてまで語る使命、ですか」

「ああ、どうか誤解しないでください。私はあなたに危害を加える気はない。ただ、あなたをこのまま“政略の駒”として差し出すことはできないのです」


 ヴァルターの語調は穏やかで、口ぶりにも余裕があった。

 だがそれは、あまりにも一方的な“善意”であり、ヨルミリアには傲慢にすら映った。


「あなたの言う“使命”とやらが、私の望むものだと、どうして言い切れるのですか」


 感情を抑えた声で、ヨルミリアは問い返した。その瞳には怒りと侮蔑の色が浮かんでいた。

 ヴァルターは一瞬だけ視線を逸らし、ふっと息を吐いてから小さく呟いた。


「……俺はただ、妹の夢を叶えてやりたいだけだ」

「!」


 不意に、彼の表情がほんの少しだけ変わった。

 柔らかな笑みの裏に、たしかに“家族”としての感情が見えた。


「セレナは、ずっと殿下の傍にいたいと願ってきた。だが、あなたが現れた。王宮も、世論も、すべてがあなたに味方した。だから俺は……妹のために動いた。それだけです」

「それが、私を攫う理由になると?」

「なりませんか?」


 その問いかけは、まるで試すようだった。

 ヨルミリアは静かに目を伏せた。


 セレナがカイルを思っていることを、ヨルミリアは知っている。

 だけど、セレナは決して自分に危害を加えるようなことはしなかった。


 この誘拐に、セレナの意思はあるのだろうか。


「セレナ様は、この件を知っていらっしゃるんですか?」

「妹は何も知る必要はない。汚れ仕事は、俺の役割なのだから」

「……」


 ヨルミリアは心の中で、『やっぱり』と呟いた。

 それでも、いつまでもこの場にとどまっているわけにはいかない。


 それに、カイルはきっと助けに来てくれる。

 ヨルミリアはそう、信じているのだ。


「殿下は、あなたが思っているよりずっと強い方です。私は、あなたに屈しません」

「……それは、楽しみです」


 ヨルミリアの宣言に、ヴァルターは初めてほんのわずかに笑みを消した。

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