11:見え隠れする影
王宮の陽が落ちる頃、カイルとヨルミリアはゼノを伴い、王宮の一角――主に文書保管を担う部屋を訪れていた。
そこはひんやりとした空気に包まれており、古い紙とインクの匂いが静かに漂っている。
高く積まれた書棚が並ぶその空間は、まるで時間が止まったかのようだった。
「……静かですね」
ヨルミリアがぽつりと呟くと、ゼノが一歩前に出て、書棚を見渡した。
「ここには王宮の公文書の副本が保管されているんです。誰が、いつ、どんな書類を扱ったかの記録も残っているはずです」
「となると、婚約解消の書類がどこから出されたのか、痕跡があるかもしれない……か」
カイルが低く呟いた。どこか張り詰めた気配が、彼の横顔に影を落とす。
3人は手分けして、それぞれ別の棚を調べはじめた。
古びた書類の束を丁寧に扱いながら、どれも一見すると無関係に思える。
けれど小さな違和感を見逃さないように、1枚1枚丁寧に確認を進めていった。
そして数分後、静寂を破るようにゼノが声を上げた。
「――カイル殿下、これを」
ゼノが手にしていたのは、小さな記録台帳だった。
開かれたページには、細かな字でびっしりと書類の出納が記されている。
カイルが目を通していくと、その中の一行に目が留まった。
「……これは『王族婚姻契約見直し提案書』? 2ヶ月前の日付か」
数ある記録の中に、ひときわ異質な響きを持ったその名前が、無言の圧力となってのしかかる。
ヨルミリアがふと、書類の端に目を向けた。
「この印、アルセリア家の紋章に似ていませんか?」
「……確かに、俺も見覚えがある」
ヨルミリアの指さすその箇所には、赤茶けた印影がわずかに滲んでいた。
形までは完全ではないが、確かにどこか見覚えがあった。
それを確認したカイルも静かに頷き、表情が険しいものに変わった。
「つまり、アルセリア家の誰かが関与していた可能性がますます濃厚になった、ということか」
カイルの口調は冷静だったが、目の奥に灯る警戒の色が隠しきれていなかった。
文書が“正式には”受理されていないにもかかわらず、こうして記録の片鱗が残っていた。
その事実が、なんだか恐ろしいものに思えた。
「でも、直接お話してみましたけれど、セレナ様は婚約解消の書類の件は知らない様子でした」
「まぁ、セレナ嬢はアルセリア家の者ではあるが、政治の中枢にいるわけではないからな…………って、ちょっと待ってくれ」
途中で言葉を止めたカイルが、バッとこちらを振り向く。
「……ヨルミリア、1人でセレナ嬢と話しに行ったのか?」
「え、はい」
あっけらかんと答えるヨルミリアに対し、カイルは頭を押さえるようにして深くため息をつく。
「頼むから、危ない真似はしないでくれ。心臓が止まるかと思った」
「え、あ、すみません……?」
ヨルミリアとしてはそこまで危ない橋を渡ったつもりはないのだが、カイルはそう思っていないらしい。
若干過保護なような気もしないでもないが、ひとまずヨルミリアは謝罪の言葉を口にした。
カイルはやれやれ……と言わんばかりの表情のまま、話を戻した。
「セレナ嬢の兄、ヴァルター・アルセリア公爵はどうだ?」
「ヴァルター様ですか?」
その名を口にした瞬間、空気がわずかに引き締まる。
アルセリア公爵家は政治の中枢を担う名家であり、現公爵であるヴァルターは王宮でも一目置かれる存在だ。
ヨルミリアは会う機会がなかったのだが、大きな野心と高い実務能力を持った人物だと聞いている。
「俺も幼い頃から知っているが……冷徹なまでの合理主義者であり、なかなか食えない人だ」
「……もしかして何か根拠があるんですか? アルセリア家の者だからって疑っているわけではないんですよね」
過去の関わりに思いを馳せているのか、カイルの声には複雑な色がにじんでいた。
ヨルミリアの問いに、カイルは静かに頷いた。
「数年前、王族と聖女の関係を縮小させようという議会提案をしたのは、ヴァルターだ。神託に従うのではなく、政治的に力を持つ相手や他国に有利を取れるような相手と、王家の結びつきを強めるべきだと発言した記録がある」
「つまり、婚約制度を“壊したい”立場ってことですね……」
ヨルミリアが目を伏せる。
自分とカイルの婚約も、制度の一部なのだ。
ヴァルターがこの制度に反対の立場ならば、自分たちの婚約に対して好意的なはずがない――それどころか排除の対象と見なされていたとしても、おかしくはなかった。
誰かの政治的な都合のために、積み上げてきた関係が切り捨てられようとしている。
そんな現実が、目の前に突きつけられていることが怖かった。
「ヴァルターが俺とヨルミリアの婚約を解消させようとしたのだとすれば、俺の婚約者の後釜にはヴァルターにとって有利に働くような相手を据えたいだろう」
「……セレナ様とか、ですか」
「ああ。だがどちらにしても、俺たちの意思を踏みにじっていい理由にはならない」
ヨルミリアの声が微かに震えていることに、気がついたのだろうか。
カイルは強い意志を持った声でそう言った。
その言葉に、ヨルミリアは小さく息を呑む。
「では、ヴァルター公爵に近い人物を洗っていく方向で?」
ゼノの問いかけに、カイルは短く頷いた。
そして、ふとカイルの視線がヨルミリアに向けられる。
「ヨルミリア」
「……はい」
「前にも言ったかもしれないが、君を無理に巻き込むつもりはない。ただ……君が傍にいてくれたら、これほど心強いことはないんだ」
その言葉は、まるでそっと差し出された灯火のようだった。
押しつけではなく、選ばせてくれる余地を残している。けれど、確かに“求めている”ことが伝わってくる。
カイルはそういう人だった。
いつだって誠実で、不器用なほど真っ直ぐで――それゆえに、心が動かされてしまう。
「私は、もう誰かの言葉に流されるだけの聖女ではいられません。自分の足で歩きたい。自分の目で真実を見たいんです」
「……なら、一緒に進もう。君の選択を、俺は何よりも尊重したい」
「はい」
そっと、手が差し出される。
ヨルミリアは躊躇うことなく、カイルの手に自分の手を重ねた。




