10:夢を叶える者
セレナ・アルセリアは、朝から不機嫌だった。
陽光の差し込むサロン。
整えられたティーテーブルには好みの茶葉が香っていたが、その芳香すら煩わしく感じられるほど、彼女の胸の内はざわついていた。
――あのヨルミリアとかいう他国の聖女が、腹立たしくて仕方がなかったのだ。
最初は取るに足らない存在だと思っていた。
他国の神殿から迎えられた聖女。国の中心に立つにはあまりに背景が乏しく、政略結婚の一環として消えていく、いつもの“誰か”だと。
けれど、違った。
蓋を開けてみれば、カイル殿下は彼女にばかり優しくする。
それは義務的な態度ではなかった。明らかに、心を許している者への“温度”だった。
おまけに最近はどんどん距離が縮まり、仲睦まじい様子がそこかしこで目撃されているというのだから、セレナは気が気ではなかった。
「どうして、わたくしじゃ駄目なの……」
周りもヨルミリアを、“本物の婚約者”として扱いはじめている。
噂話が広まるにつれて、セレナの心は荒れていった。
唇を噛み、手のひらに力がこもる。
紅茶の表面がかすかに揺れた。
たったそれだけの動きにも、自分の苛立ちが透けて見える気がして、セレナはますます自分に苛立った。
「セレナ」
その声に、肩がびくりと跳ねる。
振り返ると、控えの間から一人の男が現れていた。
ヴァルター・アルセリア。
セレナの兄であり、現在のアルセリア家を支える若き当主。
彼は年の離れた妹であるセレナを、大層可愛がってくれた。
深い青の礼服を纏い、冷ややかで端正な顔立ちを持つ彼は、セレナの様子に気づいて小さく眉をひそめた。
「機嫌が悪いな。また殿下のことで悩んでいるのか?」
「……ええ」
「殿下はもう、聖女殿と婚約しているんだろう?」
セレナは何も答えず、どこか口を尖らせるように視線を逸らした。
慣れた様子のヴァルターは返事がないのを気にすることもなく、ゆっくりとソファに腰を下ろし、彼女の紅茶のカップを手に取った。
「お兄様は何も感じないの? ヨルミリアなんて、何の後ろ盾もない聖女なのに……!」
声が少しだけ高くなった。
だがヴァルターは動じることなく、紅茶を一口含んで目を伏せる。
その様子は落ち着きを払っていて、まるで何もかも見通しているようだった。
「セレナ。お前が心配することは何もないよ」
「え?」
想定外の言葉に、セレナは動きを止める。
ヴァルターの方を見れば、セレナと同じ緑色の瞳がこちらを見ていた。
「お前の望みは、俺が必ず叶えてみせる」
「……お兄様?」
「だからどうか、機嫌を直してくれ」
ヴァルターの言葉は柔らかだった。
けれど、どこか――冷たいそれに、セレナは背中が震える。
幼い頃から、兄はセレナの“望み”を何でも叶えてくれた。
欲しいドレスも、招かれたい舞踏会の席も、ライバルに勝つための裏工作すら、彼は迷いなく手を尽くしてくれた。
だけど今回は、そういうレベルでは済まない気がする。
「カイル殿下が誰と結ばれるか――それは感情ではなく、国の“枠組み”で決まる。アルセリア家の名のもとに、神託などという古い価値観などは全て退けて、セレナの理想はすべて俺が整えてやろう」
兄の言葉は、決して戯言ではない。
アルセリア家はこの国の有力貴族の一角なのだ。
カイルがどれほど聖女に心を寄せようと、婚姻は政治。
彼に与えられるべき相手が、名家の娘である自分だというのは、理屈として正しい。
だけどノアティス王国が神託を大事にしてきたのも事実だ。
そのことが気に入らないヴァルターは、これを機に状況をひっくり返すつもりなのかもしれない。
ヴァルターは笑っていた。
けれどその笑みには、ぞくりとするような冷たさが滲んでいた。
「……お兄様、それは……わたくしのため、ですか?」
ふと漏れた問いに、ヴァルターは一瞬だけ目を細めた。
けれど、すぐに微笑みを浮かべて返す。
「そうだよ。お前の願いを叶えることが、俺の役目だ」
「……そうですか」
「お前は、ただ笑っていればいい。……その方が、可愛いからな」
セレナは答えなかった。
兄の言葉はいつだって絶対だった。けれど、なぜだろう。
今のその言葉に、妙な違和感を覚えた。
同時に、少し前にヨルミリアと話したことを思い出す。
婚約解消のための書類が第三者から提出されたことを聞き、すぐに自分が疑われていることはわかった。
それは不愉快この上ないものだったが、兄の物言いといいその事件といい、自身の周りで何かが起きようとしていることは感じている。
だからこそ、兄の言う“夢を叶える”という言葉がどうにも――自分の望む形とは、少しだけずれている気がした。




