5:心境の変化
庭園での会話のあと、カイルは『もう少し歩いてから戻る』と言って1人夜の回廊を進んでいった。
晩餐会の終了間際に戻ってきたが、ロクな会話もできないままヨルミリアは自室へと戻ることになった。
部屋へ戻る廊下の途中、ヨルミリアはふと足を止めた。
振り返れば、長く伸びた回廊の先に、先ほどまで2人でいた庭園が微かに見える。
王宮の夜は静かだった。
人影はなく、足音すら吸い込まれてしまいそうな静寂。高く昇った月が淡い光を注ぎ、開かれた窓からは、澄んだ夜風がすっと吹き抜ける。肌寒いほどの風だったけれど、それすらも今のヨルミリアには心地よく感じられた。
「居心地が悪くない……か」
カイルの言葉が、何度も頭の中で反響する。
あれはたぶん、本音だった。貴族の前では絶対に見せない、素の声。
「王子様といっても、人間だもんね。疲れたりするよね……」
ひととき仮面を外したような、真っ直ぐな言葉。
それが、ほんの少しだけヨルミリアの胸の奥を温かくする。
最初は、ただの政略のための出会いだった。
お互いに乗り気ではなく、どうすれば円満に婚約を解消できるかを考える────そのはずだったのに。
今夜の彼との会話が何かをほんのわずかにずらした気がして、なんだか妙な気持ちになってしまった。
無感情に、形式として受け入れるはずだった。期待も、好意も持つつもりはなかった。
けれど今夜の会話で、カイルに対する印象は確かに少しだけ変わったのだ。
「……せめて彼が疲れた時に、話し相手にでもなってあげられたら」
そう思った自分に、少し驚く。
それは聖女としての慈愛ではなく、もっと個人的な、1人の人間としての願いだったから。
ヨルミリアは思わず、胸元に手を当てる。
自分でも気づかぬうちに、どこかで少しだけ────期待してしまっているのかもしれない。
そんな自分を、戒めるように小さく首を振った。
揺れてはいけない。惑わされてもいけない。
けれど、それでも。
心のどこかが、やわらかく満たされているのを感じていた。
月の光を背に、ヨルミリアは再び歩き出す。
扉の前で足を止め、振り返ることなく、そっと取っ手に手をかけた。
夜の静けさが、心の奥に、優しく沁みていた。
―――――
―――
―
遠くで、扉の閉まる音がした。
王宮の一角。
執務室の窓辺に立ち、月を見上げていたカイルは、その音にわずかに目を伏せた。
「……妙な奴だな」
ぽつりと呟いた声は、誰に向けたものでもない。
ただ、胸の奥に残った微かな違和感。あるいは、熱のようなものを言葉に変えてみただけだった。
他国から来た聖女。
普通ならもっと浮ついているか、あるいは畏縮してもおかしくない。だけど彼女はいつも、静かにたたずむばかりだった。
「……あんな風に気遣われたのは、久しぶりだ」
今夜の彼女は、少し変わっていた。
自分の体調に気づき、そっと気遣いを見せたあの眼差しは、決して演技には見えなかった。
懐かしい感覚だった。
誰かが、自分を“ひとりの人間”として見てくれること。
先程の彼女の行動は極めて個人的で、静かな優しさだった。
カイルは視線を月に戻す。
高く澄んだ空に、白銀の月が静かに浮かんでいた。
「……本気で、婚約解消を望んでいるというなら」
それは、それで構わない。
けれどもし、もう少しだけ、話をしてみたくなるような相手だったなら。
そんな考えが頭をよぎり、カイルはわずかに苦笑した。
自分に似合わない思考だと、自嘲気味に首を振る。
けれど、夜風にそっと吹かれながら、どこか心の一部がやわらかくほぐれていくような気がしていた。
第1章はここまでになります。
次章はサブキャラ等も出てきて、物語が動きだします……!
第2章序盤は19時過ぎ更新です。
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