3:贈り物を渡す日
数日後。
ヨルミリアは緊張した面持ちで、カイルの執務室の前に立っていた。
胸の内を落ち着かせようと、何度も深呼吸を繰り返す。
手の中には小さな包み。数日かけて刺繍を仕上げた、ピンクのバラの花が描かれたハンカチだ。
“あなたに感謝しています”――そんな思いを込めて、細い糸を一針一針丁寧に縫ったものだった。
「……落ち着いて、私」
手のひらはうっすら汗ばんで、指先は少し震えている。
緊張のせいか、鼓動が早くなるのが自分でもわかった。
決意を固め小さくノックをすると、すぐに「どうぞ」とカイルの声が返ってきた。
扉を開けると、カイルは机に向かい書類を読んでいた。
ちらりと視線を上げたカイルと、目が合う。
カイルはヨルミリアを見るなり、柔らかな笑みを浮かべた。
けれど彼女がいつもと少し違う様子だとすぐに察したようで、僅かに首を傾ける。
「どうかしたのか? なんだか緊張した様子だが」
カイルの言葉に、ヨルミリアはびくりと肩を跳ねさせた。
もごもごと口ごもりながらも、用件を伝える。
「えっと……今日は、渡したいものがあって……」
「渡したいもの?」
予想外の用事だったのか、カイルが僅かに目を丸くする。
ヨルミリアはドキドキしながら、手元の包みを差し出した。
カイルがそれを受け取り、丁寧に紐を解くと、ふんわりとバラの甘い香りが漂った。
「……これは……刺繍か?」
彼の目に映るのは、ピンクのバラが繊細に咲いたハンカチだった。
それが自分のためだけに縫われたものだと理解した瞬間――カイルの表情が、見る間に崩れる。
驚きと喜びが入り混じった柔らかい笑みに、胸が鳴った。
「まさか、ヨルミリアが刺繍を?」
「はい。感謝の気持ちを、何か形にしたくて……下手かもしれませんけど」
「いや、これは、すごく……すごく嬉しい」
いつになくはしゃいだ様子のカイルが、ヨルミリアの肩にそっと触れた。
少し驚いた彼女に構わず、その額に自分の額を重ねる。
「嬉しすぎて抱きしめたいんだが、構わないか?」
「だっ……!?」
戸惑うヨルミリアが返事をする前に、カイルは包み込むように彼女を抱きしめた。
無理はせず、でも逃がす気はないという穏やかな包囲に、ヨルミリアは頬を赤らめたまま小さく肩を震わせる。
「あの、いいですよ、って……まだ言ってないです」
「まだってことは、嫌だとは思っていなかったってことだろう?」
「もう……」
2人の間に笑いが漏れた。
カイルは心底嬉しそうな声で、噛み締めるように言う。
「お返しは、また何か考えないとな……じゃないと、釣り合わないくらい、これは特別だ」
「今まで貰ったものへのお礼なんですから、お返しなんていらないですよ」
「俺が、渡したいんだ」
囁くような声に、ヨルミリアの心臓は跳ねる。
恋人ではない、でもただの婚約者とも違う。曖昧だった境界線が、少しだけ近づいた気がしてしまう。
だが、気のせいだろうか。
いつもよりも、カイルの愛情表現が過剰な気がした。
初めてのプレゼントだからと舞い上がっているのを差し引いても、いささか喜びすぎなような気がする。
何か誤解があるのかもしれない。
そう思ったヨルミリアは、カイルに問いかけた。
「……殿下、ピンクのバラの花言葉はご存知ですか?」
ヨルミリアの問いに、カイルは優しくうなずいた。
「ああ、もちろん知っている」
「そうですか……」
『感謝』の気持ちを込めたハンカチを贈り、ここまで喜ばれているということは、日々の感謝の気持ちがきちんと伝わっていなかったということだろうか。
そう解釈したヨルミリアは、自身の口下手に思わず項垂れる。
自分の腕の中でしゅんとするヨルミリアに気づいたカイルは、微かに不安そうな顔をして問いかけた。
「……どうした?」
「いえ。私、もっと日々感謝を伝えますね。物に頼らずとも、言葉で」
「そうか……?」
カイルの胸の中は、どこまでもあたたかい。
彼の手にあるハンカチの刺繍のように、やさしく彼女の存在を包み込んでいた。
しばらくそのままの体勢で静かな時間が流れる。
2人の鼓動だけが、穏やかな午後の空気の中に響いていた。
「ヨルミリア、ありがとう。お前のその気持ちを、俺は一生大切にする」
彼の言葉に、ヨルミリアは小さくうなずいた。




