13:心の決壊
夜の帳が降りる村の一角。
騒動の名残がまだそこかしこに漂う中、ヨルミリアは外に出て夜空を見ていた。
空は驚くほど晴れ渡り、星がこぼれ落ちそうなほど瞬いている。
王宮へ帰還するのは明日なので、今日は村に泊まらせてもらうことになっていた。
だけど眠れなくて、外に出ていたのだ。
「ヨルミリア」
その名を呼ぶ声に振り向けば、カイルがいた。
「殿下、まだ起きていらっしゃったんですか?」
「それは君もだろう?」
「えーと、星が綺麗だったので」
「……俺も、似たようなものだ」
ふっと笑い合い、カイルは隣に立つ。
並んで星空を見上げると、不思議な静けさが2人のあいだに降りてくる。
「殿下、今日はありがとうございました」
「それは、何度も聞いた」
「何度でも言いたいんです。本当に、不安だったので」
そう言って微笑むと、カイルの瞳に一瞬影が差したように見えた。
傷一つ負っていないはずなのに。
カイルの瞳には深い焦燥と、微かな震えが宿っているようだった。
「……怖かった」
「え?」
不意にそう言ったのは、カイルだった。
ヨルミリアが目を見開く間に、カイルはそっと両肩を抱き寄せる。
抱きしめられたのは、初めてのことだった。
感じる力強さに、どきりと心臓が鳴る。
「怖くて仕方がなかった。――君が、俺の目の前からいなくなるんじゃないかって」
夜風に紛れ、カイルの声は震えていた。言葉の一つ一つが、絞り出すように重かった。
王子である彼が見せるにはあまりに脆く、あまりに必死な姿だった。
「いずれ婚約解消をしたら、君は俺の前からいなくなる。それはわかっていたつもりだった。だけど、そうじゃないんだな」
「で、殿下……?」
「いざ君を失うかもしれないと思ったら、どうしようもなく怖かったんだ」
カイルはヨルミリアの耳元で、震えるように囁いた。
「婚約を解消するなんて無理だ。――俺は君を、手放したくない。どんな理由があろうと、もう絶対に」
ヨルミリアの胸が高鳴る。鼓動が、乱れる。
だが否応なく、カイルの言葉は続いた。
「君の笑う顔が好きだ。真剣に祈る姿も、俺を心配してくれる顔も。全部、俺のものにしたいって思ってしまう」
言葉の一つ一つが、熱を帯びていた。
ヨルミリアの背を抱く腕に力がこもる。その温もりが、彼の必死さを雄弁に物語っていた。
「……どうしようもなく、愚かだと思うか?」
そう呟く声は、どこか怯えてもいたように思える。
ヨルミリアは、言葉を失っていた。
だけどカイルの鼓動が自分に触れていることが、現実のすべてのように思えた。
カイルがそっと顔を上げ、ヨルミリアの目を真っすぐに見つめる。
その瞳があんまりにも切実で、逸らすことができなかった。
「……ヨルミリア。好きだ」
「殿下……」
「心の底から、君が好きなんだ」
まるで氷が溶けるように、ヨルミリアの胸に溜まっていた不安が熱を帯びて流れていく。
戸惑い、嬉しさ、戸惑い、そして――静かな幸福。
すべてが押し寄せて、ヨルミリアはただ頷くことしかできなかった。
カイルは、すぐに返事をすることを求めてはこなかった。
何も言わずに村の宿舎までヨルミリアを送り届けたカイルは、扉の前で最後にこう告げた。
「もう絶対に目を離さない。君が迷わないように、俺がずっと手を引くから」
その言葉には王子としての責務ではなく、一人の男としての強い決意が宿っていた。
扉の前で別れたはずの彼の言葉が、胸の内で何度も反響する。
ヨルミリアはなかなか寝付けず、ベッドの中で寝返りを繰り返す。朝は、もうすぐそこまで近づいていた。
今はまだ、その手を取る勇気がないけれど。
いつか、迷わず握れるように――――その日を、私はきっと待っている。




