10:雨と剣の気配
空は不穏な灰色に染まり、重たい雲が低く垂れ込めている。
ヨルミリアは本日の公務先――王城の訓練場に向かっていた。
それはリーナと恋バナした翌週のことだった。
「ヨルミリア様の視察……ですか? よりによって、訓練場……?」
「そうみたい。王命だったの」
リーナが戸惑い混じりに問いかける。
本来聖女が戦いの場に足を運ぶのは異例だったが、今回は王命により“王子の兵士教育の一環”として立ち会うことになっていた。
……これも婚約者だからか。
そう思うと、なんだか複雑な気分だった。
リーナに連れられ訓練場に入ると、湿った土と金属の匂いが鼻をついた。
剣戟の音が鋭く響き、雨粒が砂地を濡らしている。
気温よりもずっと冷たい空気が、肌を刺すように感じられた。
カイルが前線の近衛兵士たちに自ら剣技を指南する日だと聞いていたが、近くにカイルの姿はない。
「……っ」
きょろきょろと辺りを見回したあと、遠くにカイルの姿を見つけた瞬間、胸が一瞬跳ねた。
黒衣の騎士服をまとい剣を構える彼は、まるで別人のような迫力を放っていた。
その一振りごとに、鋭い気配が走る。
「あれが、カイル殿下……?」
自分の知っているカイルと、目の前の“戦う王子”との間に、どこか隔たりを感じてしまう。
その存在感に、言葉が出なかった。
言葉を失うヨルミリアのもとに、傍に控えていたゼノが声をかける。
「殿下は、決して“飾り”の王子ではありません。あの方は、剣でもこの国を守るおつもりなのです」
「……そう、なのですね」
ヨルミリアは視線をカイルから離さぬまま、静かに頷いた。
「いつもと雰囲気が全然違いますね! ヨルミリア様の傍にいる時の殿下はいつも優しい雰囲気なので、なんだか不思議な感じです……!」
リーナの言葉に、ヨルミリアも小さく頷いた。
ほんの少しだけ、胸がざわついた。自分の知らない彼が、そこにいたから。
いつの間にか、雨が降ってきていた。
雨粒が肩に落ち、ひやりとした感触が薄衣を通して肌に触れる。
しばらく見学していると、ふと、カイルがこちらに視線を向けた。
ほんの一瞬。
それだけで、まるですべてを見透かされたような気がして、ヨルミリアは目を逸らしてしまった。
……だめだ。どうしよう。カッコいい。
心の中でしか言えないその一言が、胸の奥で暴れていた。
「ヨルミリア。来てくれていたのか」
訓練が終わり兵士たちが散る中で、カイルがヨルミリアのもとに歩み寄ってきた。
雨のしずくが顎を伝って落ちる。
その姿がなんだか色っぽくて、胸の奥がじわりと熱を帯びる。
息を呑む音すら、自分の耳に響いた。
「はい。王命でしたので……」
「そうか。……だが、見ていたのだろう? 君の目には、俺はどう映った?」
「……えっと、強かった、です」
小さく答えると、カイルの口元がかすかに綻んだ。
その穏やかな笑みは、剣を振るう時の鋭さとは別のものだった。
「君の前では、剣など振るう姿は見せたくなかったが……今は、見てもらいたくなった。不思議だな」
「……殿下?」
その言葉の真意を尋ねようとした瞬間、空が唸るように鳴った。
雷鳴が雲の奥を震わせ、空気に緊張が走る。
雨脚が強くなる気配を感じて、カイルが自分の外套を外し、ヨルミリアの肩にかけてくる。
「風邪を引かないようにな。君が倒れると、俺が困る」
彼の手が、あまりに自然に触れて。
ヨルミリアは思わず固まった。
「……ありがとうございます、カイル殿下」
カイルは、頷くだけだった。
互いの熱が静かに伝わっていくような沈黙。
2人の間を、雨が静かに叩く音だけが埋めていた。




