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6:葛藤

 夜。執務を終えたカイルは、自室の執務机に寄りかかるようにして椅子に座っていた。

 蝋燭の明かりに照らされる書類の束には手をつけず、思考だけが先を走る。


 ―――いつから、こんなに目が離せなくなったんだ?

 そう自分に問うても、明確な答えは出てこない。


 最初は義務だった。

 ただの政略結婚の相手、形式的な婚約者。


 けれど今は、その名を思い浮かべるたび、胸の奥がざわつく。


「……あんな反応は、初めてだったな」


 小さく呟いた声に、自分で苦笑する。

 ヨルミリアが初めて見せた嫉妬の表情が、どうしようもなくカイルの心を揺らした。


 まっすぐで、鈍感で、なのに時折誰よりも鋭く他人の痛みに気づく奴。

 そんな彼女が、自分が別の女性と一緒にいるところを見て不満そうな顔をしたのだ。


 ヨルミリアは、どこか自分に似ていると思っていた。


 王子として、聖女として。お互い責任が大きい立場だ。

 だから誰よりも責任を背負い込んで、誰にも弱さを見せない。


 そんなところが、自分と同じだと―――勝手に、共鳴しているのだろうか。


「そういえば……」


 視線を横に落とすと、机の隅に一枚の紙が置かれていた。


 ヨルミリアが手渡した、薬草の調合メモ。

 以前カイルは、ヨルミリアの不調に気づいて差し入れをしたことがある。


 そのお礼と言わんばかりに、彼女は『殿下は目が疲れることが多いと仰っていたので』と目に良い薬草の調合メモを手渡してきたのだ。


 彼女の癖のある筆跡。見ているだけで、今にも声が聞こえてきそうだった。


 ―――いずれ、解消する。そう決めていたはずだ。

 だが、今その決断を下せずにいる自分がいた。その心の中にある、確かな迷い。


 カイルは深く息をつき、静かに目を閉じる。


「なあ、ゼノ」

「なんでしょう、殿下」


 部屋の影から現れたゼノが、静かに頭を下げる。

 カイルの最も信頼する腹心であり、付き合いの長さから時に厳しい意見もくれる奴だ。


「俺は、このまま婚約を解消しても……本当に後悔しないと思うか?」


 問いは、誰よりも冷静なこの腹心に向けたものだった。

 だが返答を待たずとも、カイルの表情には既に確信めいたものが浮かんでいた。


 ゼノはその場に立ちすくむようにして、しばらく無言でカイルを見つめていた。


「立場としてお答えするなら、“後悔なき判断をされることを信じております”と申し上げるべきでしょう」

「……言葉遊びか?」

「いいえ。ですが立場を考えずに申し上げるなら、こうお伝えいたします」


 その一言に、カイルの心が少し動く。

 ゼノは冷静でありながら、彼の心の変化をよく理解している。


「殿下。あなたは既に、後悔し始めているのでは?」

「……は?」


 その言葉に、カイルは微かに肩を揺らした。


 その問いは、まるでカイルの内面を見抜かれたかのように刺さった。

 カイルは言葉を続けようとしたが、口をつぐむ。


「気づいておられるでしょう。あなたは、彼女に心を動かされている。――それは義務でも、公務でもない」


 思い浮かぶのは、どこか不器用に心を隠すような彼女の笑顔。

 それでも、時折ふいに見せる柔らかな横顔。


 ゼノは一歩下がり、冷静に続けた。


「あまり時間は、残されておりませんよ」

「……」

「彼女を思って手放すのか、手元に置いて守り抜くのか。ご判断は、早めにしてくださいね」


 ゼノはそう告げてから、再び音もなく部屋を後にした。

 残されたカイルは、そっと目を閉じる。


 心の中にあふれる花の香りと、微笑む彼女の横顔が浮かび上がる。


「婚約解消するか……しないか……」


 その問いに答えるためには、もう一度自分の心に向き合う必要があるのだろう。

 静かに瞳を開け、カイルは深く息を吸った。

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