5:嫉妬
焦ったような足音が、ヨルミリアの鼓膜を揺らした。
「ヨルミリア!」
「殿下?」
「急ぎの用事だと聞いたんだが」
足早に廊下を抜けてきたカイルは、ヨルミリアの姿を見つけるなり眉をわずかにひそめた。
早口でそう言われ、ヨルミリアはキョトンとする。
カイルを呼びにいくと言ってヨルミリアの元を離れたリーナは、姿が見えない。
恐らくカイルは、リーナを置いていくくらいの速度でこちらに向かっていたのだろう。
「何かあったのか? 誰かに何かされたのか?」
「え? えっ?」
「見たところ体調不良ではなさそうだが……どこか怪我でもしたのか?」
「いえ、元気ですが……」
焦った様子のカイルに、ヨルミリアは困惑気味の表情を浮かべる。
いったいリーナは、なんと言ってカイルを連れ出したのだろう。
「……あ、あの、これ。殿下にお目通しいただきたいと思いまして」
ヨルミリアはカイルの剣幕に気おされながらも、おずおずと書類を差し出す。
だけどカイルのマントの揺れた残像が目に焼き付いて、離れてくなかった。
ヨルミリアは、見ていたのだ。
あの回廊で、咲き誇る薔薇に彩られた光の中。
カイルとセレナが、まるで恋人のような距離で言葉を交わしていたのを。
他のご令嬢と、あんなに近い距離で―――。
ぽつりと胸の中に広がる感情に、無意識に唇をきゅっと引き結ぶ。
「……書類?」
「は、はい」
書類は、ただの口実だった。
“どうしても至急届けなければならない”というほどのものではない。
ヨルミリアのために、リーナが気を利かせてくれたのだ。
……書類を口実にすると言っていたのに、どうやら別の口実でカイルを連れ出したようだが。
「ふぅん……?」
「どうかしましたか?」
「いや、急ぎと言っていた割には……」
カイルの表情が、不思議そうなものに変わる。
「それに急いでいる様子もないし、随分と涼しい顔をしていたなと思って」
「……う……いえ、少し……気になっただけで」
ごまかすように答えた言葉に、自分でも息が詰まりそうになる。
それなのに。
「何が気になったんだ?」
「……あっ」
からかうように一歩、距離を詰められる。
ヨルミリアは自分の失言に気がついて、思わず声を上げた。
顔が熱い。耳までじわりと赤く染まっていくのを自覚して、ますます目が合わせられなかった。
「違います、間違えました。私は別に何も見てないです」
「別に『何を見た?』とは聞いてないんだがな」
「……」
会話がまるで、綱渡りのように危うくて。
言えば言うほど墓穴を掘っていくようだった。
こういう時は、もう取り繕うのを諦めた方が楽だということを、ヨルミリアは知っていた。
「さっき、セレナ様とお話していたところを見たんです」
「……そうか」
素直に言葉を吐いたヨルミリアに、カイルは淡々とした口調で返す。
その様子から、隠れて会っていたわけでも何でもないことは伝わってきた。
それでも、なんだか面白くなくて。
ヨルミリアは拗ねたようにふいっと顔をそらした。
「2人で、仲睦まじそうな様子でしたね」
「……気になるか?」
「べ、別に、セレナ様のことなんて……」
「なんて?」
くすりと笑いながら返される言葉に、心の奥がざわめいた。
「……っ、なんでもありませんっ!」
俯いたまま早口で言う。
けれど、その声音には明らかな動揺がにじんでいた。
カイルは少し目を細め、静かに歩を進めた。
その動きはゆっくりと、しかし確実に空気の温度を変えた。
「俺が誰と話していても、関係ないはずだよな。君とは“仮初めの婚約”なんだから」
「……」
その言葉が胸に突き刺さった。
事実―――それは最初からわかっていたはずなのに。
だからこそ、たった一言でこんなにも心が乱されるのが悔しかった。
「……殿下って、私を特別だと言ったり関係ないと言ったり、ちょっと意地悪です」
ぽつりと漏れた本音。
それは、かすかな抗議であり、同時に甘えでもあった。
「すまない、からかいすぎた」
「確かにいずれは、婚約を解消する関係かもしれませんけど。でも……まったく関係ないわけでもないでしょう? だって私は……聖女ですから。えっと、公務の上で、殿下と不和があっては困りますし……」
言葉を選びながら、それでも早口になる最後の部分。
それは理性の言葉であり、心の防壁でもあった。
カイルは、ふっと笑った。
「そうだな。俺も、ヨルミリアと距離ができるのは嫌だな」
カイルの言葉に、ヨルミリアは答えることができなかった。
この気持ちにまだ名前はついていない。
だけど確かに、彼の一挙一動が自分の心をこんなにも掻き乱していることに、ヨルミリアは気づいていた。




