4:セレナの接触
ガーデンパーティーから数日経った。
香り高い薔薇が咲き誇る回廊。陽光に照らされるその道を、カイルがゆるやかな足取りで歩いていた。
淡い花弁の彩りを映すかのように、白い軍衣の裾が静かに揺れている。
その背に、鈴を鳴らすような声が届いた。
「殿下」
振り返った視線の先にいたのは、巻き髪を風に揺らす令嬢、セレナ・アルセリアだった。
華やかな濃紫のドレスに身を包み、胸元には艶やかなブローチが煌めいている。
カイルは表情を動かさず、セレナを見つめていた。
「……セレナ嬢」
「お忙しいところ恐れ入ります。少しだけ、お時間をいただけませんか?」
微笑みとともに深く一礼しながら、彼女は一歩、さらにもう一歩と、間合いを詰めてきた。
その動きには明らかに“淑女の礼儀”を超えた、個人的な熱を含んでいた。
「ご用件を聞こうか」
カイルは表情を崩さず応じたが、声にはわずかな硬さが混じる。
が、それでもセレナは怯まない。
「わたくし、殿下のおそばに立つ者こそ、真に国を支えるべきだと思っております」
「……」
「神託も伝統も、確かに尊いものです。でも“人の心”こそ、真に国を動かすものではないかと。わたくしはそう思うのです」
「……どういう意味だ?」
問い返すカイルの視線はまっすぐで、揺らぎはなかった。
セレナは微笑を浮かべて、言葉を続ける。
「わたくしは幼いころから、殿下の傍にいましたわ」
「……」
「だから殿下のことも、周りのご令嬢に比べたら知っているつもりです。殿下は、他のご令嬢とあまり交流を持ってきませんでしたので、余計にそう思っております」
「……君も、俺が変わったというのか?」
「え?」
投げられたその問いに、セレナは軽く瞬きをした。
虚を突かれたような顔をしたセレナは、少し考えるような素振りをしてから口を開く。
「……そうですね。変化した部分もあるかもしれません」
「……」
「でも、変化って良いものばかりでもありませんのよ」
その言葉の奥にあるのは―――“ヨルミリア”という名前を敢えて出さないままに伝える、静かな批判だった。
セレナの言葉に、カイルの指先がぴくりと跳ねた。
「わたくしはいつも、殿下の未来を1番に考えております。それは、今も昔も変わりませんわ」
そう言って、セレナは彼の袖にそっと指を添える。
詰めた距離は、ほんの数歩。だがその“近さ”には、明確な意図があった。
恋人同士と見紛うほどに近い距離に立ったセレナは、うっとりとした表情をしている。
「神託も運命も関係なく、殿下が心を許せる相手を、そばにおいていただきたいのです」
「……」
「どうか……幸せになれる選択をしてください」
囁くように告げられたその言葉には、切なげな想いが滲んでいた。
その場にいた誰かが見れば、それはまさしく“愛の告白”に等しかった。
カイルは、沈黙のまま彼女を見つめる。
その眼差しは冷たくもなく、しかし温もりも帯びていなかった。
静寂を破ったのは、甲高くはねる靴音だった。
「殿下!」
カイルが口を開くよりも前に、パタパタとした足音と共にリーナが姿を現す。
わずかに息を弾ませながら、小柄な体が慌てたように一礼した。
「リーナ? どうかしたか?」
「あ、あのっ、ヨルミリア様が…………えっと、至急のご用事です!」
「ヨルミリアが?」
カイルの反応が一変する。
たったひとつの名を聞いただけで、思考の重心が揺らいだかのようだった。
次の瞬間には、もうカイルの足が動いていた。
「すぐに案内しろ」
「か、かしこまりました!」
「カイル殿下……!?」
その背に縋るような声を、カイルは振り返らなかった。
「……すまないが、失礼する」
それだけを静かに告げて、カイルはセレナの袖に添えられた彼女の手を、そっと自分の手で外した。
力も情も込めず、ただ“境界線”を引くように。
セレナはその背中を唇を噛んで、見送ることしかできなかった。
優雅な立ち姿も、揺れる肩も、もはや自分の手の届かないもののように遠ざかっていく。
「……っ!」
薔薇の香りの中、セレナの瞳にはかすかな焦りと、痛み、そして―――嫉妬が静かに宿っていた。
優雅に笑って見せるその顔の裏で、セレナ・アルセリアは理解していた。
このままでは、自分の望む立ち位置を手に入れられないのだということを。
そして、それを手に入れるために必要なのはもう、“淑女の振る舞い”だけではないということも。




