3:控えの間
2人きりになれる控えの間は、重厚な扉で外界と隔てられていた。
陽の差す窓辺に並んで腰かけると、宮廷の喧騒が嘘のように静まる。
「この部屋、覚えてるか?」
「……え?」
突然の問いかけに、ヨルミリアは目を瞬かせる。
カイルは窓の向こうに視線を向けたまま、低く穏やかな声で続けた。
「顔合わせの日、君と言葉を交わした場所だ」
「あぁ……」
ヨルミリアは、あの時の光景をぼんやりと思い出す。
重たい空気、交わらぬ視線、そして──深いため息。
「俺は王太子として、君に“結婚を望む顔”をして見せるべきだったのに。あんな態度を取ってしまって、後悔している」
少し気まずそうに言うカイルの横顔に、ヨルミリアは目を細める。
そもそもヨルミリアも、乗り気じゃないまま顔合わせに臨んだのだ。
カイルを責める権利などない。
「全然気にしていませんよ。私だって、どう振る舞えばいいか分からなかったんですから」
ぽつりとこぼれる本音に、カイルは目を伏せて微かに笑った。
「それに殿下は、最初から結構優しかったですよ」
「……君は、“優しい”のハードルが少し低いんじゃないか?」
皮肉めいた返しだったが、声に棘はなかった。
むしろ照れ隠しのような響きがあって、ヨルミリアはくすりと笑う。
「そんなことありませんよ。だって殿下は、私のことを思って『円満な婚約解消を目指そう』と申し出てくれたんでしょう?」
カイルの眉がわずかに動く。意外だった、というように。
「神託に従い、形式だけの結婚をして、私を放っておくことだってできたのに。そうしなかったのは、殿下の優しさに他ならないです」
「……そんな風に言われるとは、思わなかった」
「そうですか?」
「君は、物事をプラスに見るのが上手いんだな」
カイルが呟くと、部屋にまた静寂が戻る。
ヨルミリアは、ふとカイルの横顔を見つめる。
誰よりも強いその人が、自分にだけはこうして穏やかな顔を向けてくれる。
その事実が、胸の奥を温かく満たしていく。
「最近周囲が騒がしい。君が“俺の隣にふさわしいか”を測るような目で見られているのも分かってる。だが、気にしなくていい」
「気にしていないわけではありません。でも、それより……」
少し言い淀んだヨルミリアに、カイルが視線を向ける。
「それより?」
「……殿下は、どうしてそんなに私を大事にしてくださるのですか?」
ずっと胸の奥にくすぶっていた疑問だった。
優しさだけでは説明がつかないそれに、ヨルミリアは答えが欲しかった。
カイルの瞳に、一瞬だけ迷いのようなものが浮かんで──そして、すぐに消える。
「そうしたいからだ……君のことが、放っておけない」
それは揺るぎない声だった。
ヨルミリアは目を見開き、そして戸惑いの中で答えを探すように口を開いた。
「俺が君に甘いのは自覚してる。甘くしたいと思ってるし、そうしてる」
「でも、それではまるで……」
「まるで、何だ?」
返ってきた問いに、ヨルミリアは口をつぐんだ。
“まるで、恋人みたい”
そんな言葉を飲み込み、代わりに立ち上がる。
「そろそろ、戻らないと」
「……そうだな」
短い返事が返ってくる。
それに頷いたヨルミリアが、扉に手をかけたその時──。
「ヨルミリア」
名前を呼ばれ振り返ると、カイルは椅子に座ったまままっすぐにヨルミリアを見ていた。
「そうだ。近いうちに、渡したいものがあるんだ」
「え?」
「届いたらすぐに渡しに行くから、受け取ってほしい」
その一言はまるで祈りのように静かで、深かった。
思わず心臓が跳ねる。
手のひらが、じんわりと熱を帯びる。
「……わ、わかりました」
それだけを残して、ヨルミリアは扉を開いた。
どこか名残惜しさにも似た感情を胸にしまいながら。
──その背後。
控えの間から少し離れた廊下の陰に、1人の令嬢が立っていたことには、誰も気づいていない。
セレナ・アルセリア。
濃紫のドレスに身を包んだ彼女は、ふっと微笑んだ。
「ふうん……やっぱり、そういう関係なのね」
優雅に扇を閉じる仕草に、計算された女の勘が滲んでいた。




