15:セレナ・アルセリア
午後の陽が柔らかに差し込む神殿の回廊。
礼拝を終えたヨルミリアは、侍女のリーナと共に書庫へと向かっていた。
「ヨルミリア様、聖典写本はこちらの廊下の奥らしいです!」
「わかったわ。ありがとう」
「少し空気がひんやりしてますね…………あれ? 誰かいらっしゃいます」
リーナが不思議そうな顔をして、遠くの方を見た。
「まあ……ようやく、お会いできましたわね」
澄んだ声が、回廊に響いた。
顔を上げると、壁際のアーチの前に佇む令嬢がいた。
紅茶色の長い髪を緩やかにまとめ、流れるようなレースが施された淡いラベンダーのドレスを纏っている。
姿勢も所作も、完璧なまでに貴族らしい気品に満ちていた。
見覚えのない人物に、ヨルミリアはぱちりと瞬きをひとつ。
「えっと……?」
「あら、ご挨拶が遅れてしまって申し訳ありません。わたくし、アルセリア伯爵家の令嬢、セレナ・アルセリアと申しますわ。よろしくお願いしますね、ヨルミリア様」
流れるような所作で優雅に一礼する彼女に、ヨルミリアもハッとして丁寧に会釈を返した。
「聖女のヨルミリアです。本日は、どういったご用件で?」
「父に同行して、神殿の神官にお話を伺いに来ていたんですの」
「そうなのですね」
セレナの言葉に、ヨルミリアは静かに頷いた。
すでに何人かの貴族が神殿に顔を出しているのは知っていたが、これほど目を引く令嬢に会うのは初めてだった。
「それにしても……殿下の近くにいらっしゃる方とは、もっと早くご縁があるかと思っておりましたのに」
「え?」
「いえ。今こうしてお会いできたこと、嬉しく思います」
微笑みを浮かべながらも、セレナのまなざしは決して笑ってはいなかった。
柔らかい言葉の裏側に、冷たい光のような観察の視線がある。
ヨルミリアは少しだけ背筋を正した。
「聖女といえば、神託の器。清く尊く、民に選ばれし存在―――そう思っておりましたけれど。こうしてお会いしてみると、随分普通の女の子なのですね」
ラベンダー色のドレスの裾が、わずかに揺れた。
その姿はあくまで上品で、優雅で―――だが、その口ぶりには棘のようなものが紛れている。
まるで「理想」と「現実」の落差を突きつけるかのように。
「えぇ。よく聖女らしくないとは言われます。普通の女の子で、残念でしたか?」
セレナの言葉に、ヨルミリアは微笑んだ。
“評価される存在”として生きることには、ヨルミリアなりに慣れていた。
だからその中で自分を保つ術も、少しずつ身につけていたのだ。
だが、それはどうやら、セレナも似たようなものだったようで。
ヨルミリアの反応に一瞬驚きにも似たような感情を浮かべつつも、瞬きの間にそれは微笑みに変わっていた。
「あら、残念なんてまさか。ただ殿下のお相手ですから、興味があったんですの」
「殿下って……カイル殿下のことですよね」
「ええ。殿下とは昔から、親交がございますの。どんなときも冷静で、誰に対しても公平で、わたくしはお慕いしておりました」
「え……」
「だからあの方の隣に立てる人間がいるとすれば、それは……」
少しだけ、言葉を止めて。
そしてセレナは、あくまで自然な微笑のまま、ヨルミリアをまっすぐ見つめた。
「……それは、とても特別な人だと思いますわ」
どくん、と大きく心臓が鳴る。
沈黙の間、回廊を吹き抜けた微かな風が、二人のスカートの裾を揺らした。
ヨルミリアはその言葉を胸の内で繰り返す―――“特別な人”。
ヨルミリアは戸惑いを隠しながらも、にこりと笑った。
「殿下は……確かに、素晴らしい方です。けれど私は、まだ隣に立つには未熟ですし……そういう間柄でもありません。あくまで婚約者です」
「本当に、そうかしら?」
その問いかけは、まるで深い水面に小石を落とされたように、ヨルミリアの心の奥で波紋を広げた。
穏やかであるはずの午後の空気が、急に冷たく感じられる。
セレナの声には押しつけがましさはなかったが、それが逆に、揺るぎない確信として響いた。
「“神託”によって選ばれて、あなたは殿下の婚約者になったのですよね? その意味を、あなたはどれほど理解しているのかしら」
その言葉に、ヨルミリアの胸の奥がわずかにざわついた。
確かにそう呼ばれてはいる。神託によって定められた立場として。
だから自分の意思など、そこにはなかったはずだ―――。
ヨルミリアは視線を少しだけ逸らし、息を呑んだ。
「……私は、ただ与えられた役目を果たしているだけです」
「けれど、“選ばれた”事実は変わらない。あなたには、その自覚が必要ですわ。なぜなら、カイル殿下は……誰にでも、心を向ける方ではありませんもの」
「…………」
ヨルミリアは目を伏せたまま、胸の内に生まれたざわめきを抑えようとした。
カイル殿下のまなざし、彼の言葉―――あのとき自分に向けられたそれらに、ほんの僅かな特別が宿っていたのではないかと。
セレナのまなざしは、凪いだ湖面のように静かだった。
だが、深く底に潜む感情は、一瞬たりとも揺らいでいないように見えた。
「それに……」
セレナは一歩、ヨルミリアの方へ歩み寄る。
「殿下がどんな方と共に生きるか。その“結末”を見届けることは、伯爵家の者としても個人としても、大切なことなのです。だから、あなたがどんなお方なのか……もっと知りたいと思っていましたの」
「……」
「あぁ、気を悪くなさらないで。わたくし、本当にあなたに興味があるの。もしよろしければ、またお話させていただけるかしら?」
「……えぇ。私でよければ、いつでも」
優雅な所作で一礼し、セレナはゆっくりと歩き去っていった。
その後ろ姿を見送る間、ヨルミリアの心には妙なざわつきが残っていた。
セレナの言葉は丁寧で、仕草も優美で、敵意はどこにもない。
それなのに、どうしてこんなにも気を張ってしまうのだろう。
それが嫉妬なのか、恐れなのか、あるいはその両方なのか。
ヨルミリアにはまだわからなかった。
「なんだか、強そうな方でしたね」
「……きっと、殿下のことが好きなんだわ」
「え? え、えっ、殿下って……あの、“お慕いしていた”ってそういう……!?」
リーナが大きな声を出し、ハッとして口元を押さえる。
瞳は驚きで丸く見開かれていて、パチパチと瞬いていた。
「えぇ……そ、それってつまり……ライバル?」
「えーと、そんなつもりはないけれど……」
そう言いながら、ヨルミリアは気づいてしまう。
“そんなつもりはない”と自分が言うこと自体が、何かの感情の裏返しであることに。
殿下の隣に相応しいのは、誰なのか。
その言葉が、胸の奥に引っかかって離れなかった。




