13:感情
儀式を終えた神殿の廊下は、午後の陽光を背にしてなお、ひやりと静けさに包まれていた。
ヨルミリアは廊下を歩いていたが、その背中に声がかかった。
「ヨルミリア殿」
振り返ると、白銀の衣に身を包んだ男―――導師ラフィールが、控えめに頭を下げていた。
その様子にヨルミリアは、驚いたように僅かに目を見開く。
「ラフィール様」
「……先ほどの祈祷、見事でした」
「えっ?」
「あのような場で、あれだけ澄んだ声を通せるとは―――……王宮という環境にも、少しずつ馴染まれているのですね」
「いえ。私はまだ、ただ形をなぞることで精一杯で……」
少し前にかけられた、厳しい言葉を思い出す。
あれから時間も経って、ヨルミリアは徐々に受け入れられ始めたのだろうか。
だがそれを手放しで喜べるほど、ヨルミリアは自分自身に手ごたえを感じていなかった。
ラフィールの言葉には驚いたものの、ヨルミリアは微かに視線を伏せた。
廊下の片隅にあるアーチの傍に立ったラフィールは、そっとその場所を手で示した。
「よろしければ、少しだけお時間をいただけますか?」
ヨルミリアはこくりと頷き、指し示された場所へ向かった。
アーチの向こうには小さな石造りの回廊があり、緑の蔦が壁を這っている。昼下がりの光に照らされるその一角は、まるで聖域のようだった。
「あなたは、形式ばかりの祈りをなさらない。そこに心があるように思います」
「心……」
ラフィールは、壁に手を添えながら続ける。
「……王宮の者の中には、聖女を“神に選ばれた象徴”とだけ見なす者もおります。ですが私は、それだけでは足りぬと考えます。神の声を受け、その手を差し伸べる存在であるならば―――聖女とは、神に仕える者であると同時に、“人に向き合う者”であるべきなのです」
「向き合う者……ですか?」
「はい。人を、世界を、自らの意思で見つめ、感じ、祈る者。だからこそ、あなた自身の感情をないがしろにしないでいただきたいのです」
思わず、ヨルミリアは顔を上げる。
ラフィールの言葉は、まるで心の内を読まれているように正確だった。
ヨルミリアの頭の中には、カイルの顔が浮かんでいた。
彼の言葉に励まされ、彼の無言に支えられてきた日々が、胸の奥で静かに揺れる。
目を伏せるように、ヨルミリアはそっとまぶたを閉じた。
政略のための縁―――そう割り切っていたはずの距離に、確かに生まれつつある何かがある。
それを認めることが、なんだか怖かった。
「王族との政略、宮廷内の駆け引き、形式ばかりの儀式……。そうしたものに囲まれれば、感情など不要と感じる日もあるでしょう。けれど、忘れないでください。あなたは“生きた聖女”なのです。心を持つからこそ、あなたの祈りは力を持つ」
「……でも、私にはまだ、それだけの強さがあるとは思えません」
ぽつりとこぼれた声に、ラフィールは穏やかな微笑を浮かべた。
「強さは力の大きさではなく、“揺れ動いたあとに立ち上がる意志”のことです。ヨルミリア殿には、それがあります」
沈黙が流れた。
ヨルミリアは小さく息を吐き、ほんのわずかに微笑んだ。
「……ありがとうございます。ラフィール導師。今のお言葉、とても……心に染み入りました」
「それは何より。今後も、困ったことがあれば遠慮なくお声がけください。私は常に“公”として、そして“個”として、あなたを見ております」
ラフィールは一礼し、静かにその場を後にした。
足音はほとんど響かず、彼の存在だけが余韻のようにその場に残った。
残されたヨルミリアは、蔦の絡む石壁にそっと手を添える。
ラフィールの言葉が、胸の奥で小さな灯となっていた。