9:理屈と感情
式典の次の日の、とある昼下がり。
王宮の執務室には柔らかな光が差し込み、書類の影が机上に淡く滲んでいた。
カイルは筆を置き、無言のまま背もたれに深く身を預ける。
「……昨日のこと、やりすぎだっただろうか」
ぽつりと呟いたそれに、ゼノはなんてことない様子で返事をした。
「差し入れの件でしょうか?」
「他に何がある」
「他、といいますと……抱きしめようとして、できなかったことでしょうか」
「なっ……!?」
ゼノの一言で、張り詰めた沈黙が一気に破られる。
カイルはガタンと椅子を引くように身を起こし、驚きに目を見開いた。
「見てたのか!?」
「えぇ、まぁ、少々」
狼狽しているカイルを他所に、そばに座るゼノは茶を口に含みながら淡々と答える。
そしてしばし考えるように黙したあと、ゆっくりと湯呑を置いて静かに言葉を落とす。
「殿下が自ら動かれたこと、それ自体が“異例”であるのは確かです。ですが……“らしくはなかった”と責めるつもりはありませんよ」
「……」
「これは、殿下ご自身が意識されている以上に、ヨルミリア様の存在が心に影響を及ぼしている証左です」
その言葉に、カイルは少しだけ眉を動かす。
カイルの瞳に浮かぶのは、疑念というより戸惑いだった。
心の中で膨らみ始めた感情が、まだ名前を持たぬまま揺れている。
「……彼女の声が掠れていて、顔色が悪かった。それが気になっただけのことだ」
「それだけ、でしょうか?」
ゼノはゆるやかに立ち上がり、机の端に手を添えながら穏やかに続ける。
「同じ場に居合わせた者は何人もおりました。しかしあの声の掠れを、些細な不調を見抜いたのは殿下だけだったのでは」
カイルは押し黙り、指先で机を軽く叩く。
「……気づいたら、動いていた。理屈じゃなかったんだ。俺は……ただ、あれを放っておけなかった」
「だから抱きしめようとした、と?」
「その部分はもういい!」
ぴしゃりと遮ったカイルの声音は、どこか焦りにも似ていた。
だが慣れたものだと、ゼノは表情を崩さない。
「殿下はずっと“この婚約は形式だ”と仰っていました。ですが形式に心が動かされてしまうのなら、それはもうただの“形式”ではないのでは?」
「……それでも、俺たちはそういう関係でしかないんだ」
「本当に、そう思っておられますか?」
ゼノの言葉には、わずかに熱が宿っていた。
カイルが黙り込むと、ゼノは少し間を置いてから静かに続けた。
「あの差し入れに込められていたのは、理屈ではない“思いやり”でした。“喉が枯れていた”“疲れていた”―――そう思ったのなら、それはもう“義務”ではない。殿下の感情です」
カイルの目が、ふとゼノをとらえる。だがその視線には怒りも否定もなかった。
「……自分でもよくわからない。だが彼女が弱っている姿を見て、胸がざわついた。助けたいと、思ってしまった。たぶん昔なら、そんな感情は無視できたはずなのに」
「それが“感情”の厄介なところです。誰も命じていないのに、心は勝手に誰かを守ろうとする」
カイルは深く息をつき、目を閉じた。
まぶたの裏に、昨日のヨルミリアの姿が浮かぶ。
礼装に包まれ微笑んでいたその影の奥に、疲れた表情と掠れた声があった。『見ていてくれてありがとう』と言って柔らかに笑う姿は、作られた笑みではなかったと思いたい。
「彼女は、無理をしているよな」
「まぁ慣れない土地ではありますからね。ですが無理をしていることを隠すのもまた、聖女としての“務め”なのでしょう」
「……それが、俺は見ていて苦しい」
それを聞いたゼノは、ふむ、と思案顔になる。
だがしばらくの沈黙のあと、小さく、しかし確かに頷いた。
「殿下。いずれどこかで、決断を迫られる時が来ます。形式と本心のどちらを選ぶのか―――どちらにせよ、もう無関係ではいられませんよ」
「……わかってる」
その低い声は、今度こそ揺らがなかった。
カイルの心に迷いの影を少しだけ残しながらも、そこには確かな意志の芽生えがあった。




