8:優しさの理由
本日の仕事は、信仰行事への同席だった。
ノアティス王国に来る前にも経験していたことなので、そこまで緊張することもなく、無事に行事は終了した。
立ち居振る舞いは完璧だったと、自分でも思う。
けれど体は正直なのか、緊張感の糸が緩んだ反動で、足先からじんわりと疲労が広がるのを感じる。
礼装の袖が腕に重く、普段より少しだけ小さな呼吸しかできない気がして、胸の奥にわずかな圧迫感が残っていた。
「なんだかちょっと、疲れたな……」
そんなひとりごとを漏らした時、ふと、控室の扉がノックもなく静かに開く。
入ってきたのは、カイルだった。
「……殿下?」
「差し入れを持ってきた。喉、乾いてるだろう」
ぶっきらぼうな口調とともに、カイルは銀のトレイを机の上に置く。
静かな音を立てて置かれたトレイの上には、温かい香草茶と、素朴なナッツ入りの菓子パンが並べられている。
飾り気はないが、体に優しく、滋養のある組み合わせだった。
「えっと、これは……?」
「さっきの式典で、声が少し枯れていた。気づいてないと思ったか?」
カイルの言葉に、ヨルミリアは小さく目を瞬いた。
誰にも気づかれていないと思っていた、自分でも僅かに感じる程度の些細な不調だった。
それなのに、ヨルミリアの様子に気づいたばかりか、差し入れまで。
思わず『そんなところまで、見ていたんですか……?』と問えば、カイルは一度だけヨルミリアの方へ目をやり、口元にわずかな笑みを浮かべる。
「そりゃあ、式典の細部も把握するのが務めだからな」
「でも、それなら他の方に任せても──」
「……君に手を貸すのを、他人任せにする気はない」
「え……?」
戸惑いと動揺がにじむ声が漏れる。
だけどどうしようもなく嬉しくて、ヨルミリアは小さく笑みをこぼした。
「ありがとうございます。あの時と、逆ですね」
「あの時……? あぁ、晩餐会の時か」
「はい」
こくりとヨルミリアが頷けば、カイルはどこか遠くを見るような目をする。
「……あれからそろそろ1ヶ月か、早いな」
「あっという間でしたけれど、殿下には助けられてばかりです」
「そうか?」
軽く問い返したカイルの声は、どこか照れ隠しのようでもあった。
彼にしては珍しく視線を逸らし、ほんのわずかに耳のあたりが赤くなっているのが見えた。
その仕草がどこか可笑しくて、けれど胸の奥がふっと温かくなる。
「神殿の時、初めての共同公務の時、そして今……」
ヨルミリアは指折り数えてから、カイルを真っ直ぐ見つめてから言った。
「私のこと、見ていてくれてありがとうございます」
口にした途端、言葉の重みがじわじわと胸に響いてくる。
きっと、それは前から思っていたこと。
だけどいざ言葉にするには少しだけ勇気が必要で、今ようやくそれができた気がした。
「私がこの国に来て孤独を感じていないのは、殿下のおかげです」
素直な想いを告げながら、ヨルミリアはそっとカイルの表情をうかがった。
彼は何も言わずに、じっとこちらを見つめている。
アイスブルーの瞳には、真剣さと切実さがつまっているようだった。
「殿下……?」
先ほどから何も言わないカイルに呼びかけると、彼はゆっくりと一歩、ヨルミリアとの距離を詰めた。
その動きには、どこか決意のようなものが宿っていて。
ヨルミリアの心臓がひときわ強く跳ねる。
カイルの手がそっと持ち上がり、まるで抱きしめようとするかのように、ヨルミリアの肩へと伸びかけ────。
「あ、でも、リーナもゼノ様もよくしてくださいますし、殿下だけのおかげではないかもしれません」
ぽつりと告げられたその言葉に、カイルの手が空中で止まった。
おかしな格好のまま微動だにしないカイルに、ヨルミリアは小首を傾げる。
「……ヨルミリア、君、空気が読めないって言われたことはあるか?」
「え? 特にありませんが」
「そうか……」
小さくため息をついたカイルの声には、呆れとほんのわずかな諦めが滲んでいた。
けれどそれは不快な感じではなく、どこか温かさを含んでいる。
ヨルミリアは一瞬きょとんとしたあと、なんだかおかしくてくすりと笑ってしまう。
こんなふうに、心を許せる相手と過ごす静かな時間が、どれほど貴重かを思い知る。
この国に来たことを、少しだけ『幸運だった』と思えるような気がした。




