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『零れ落ちた夜』

作者: 小川敦人

『零れ落ちた夜』


朝日が東京の高層ビル群の間から差し込み、手錠をはめられた俺の顔を照らした。

護送車の窓からは、一度は憧れた街の景色が流れていく。

「被告人、佐藤誠、死刑を言い渡す—」

裁判官の言葉が頭の中で繰り返し響く。


二十年前、俺はまだ純粋だった。

「東京に行くんだ!」

故郷の村で、高校の卒業式が終わった後、友人たちに宣言した。小さな田舎町には何もなかった。

大学も、夢も、未来も——全て東京にあると信じていた。

「大きくなったら戻ってくるんだぞ」

母は涙をこらえながら、新幹線のホームで俺の背中を軽く押した。

当時は気づかなかったが、あれが母を見る最後の機会になるとは。

東京駅に降り立った瞬間、人の波にのまれた。みんな忙しそうに、目的を持って歩いている。そんな中で俺だけが立ち止まり、圧倒されていた。

「ついに来たんだ...」

安アパートに荷物を置き、夜の街に出た。ネオンが輝き、音楽が溢れ、人々の笑い声が響く。これが俺の求めていた世界だった。

大学生活は順調に始まった。勉強、バイト、休日には友人たちとの飲み会。都会の生活リズムに慣れてきた頃、就職活動が始まった。

「佐藤君、君には向いてないよ」

何度目かの面接で言われた言葉が、どこかで引っかかった。大学は名の知れた所ではなかったし、特別な才能もなかった。

そんな普通の俺が、普通に生きていくにはどうすればいいのか。

卒業後、小さな広告代理店に就職した。毎日終電まで働き、上司の機嫌を取り、それでも給料は安かった。

六畳一間のアパートで、コンビニ弁当を食べながら、テレビの中の華やかな東京を見つめる日々。

母が他界したのはそんな時期だった。葬式にも帰れなかった。

転機は三十歳の誕生日に訪れた。

「おい、佐藤、この企画書やり直しな」

提出した企画書を、上司は一瞥もせずにゴミ箱に捨てた。


その夜、会社の近くの居酒屋で一人、安い焼酎を飲んでいた。

「一人か?」

隣に座った男は、高級スーツに身を包み、金の腕時計をしていた。ただ者ではないと直感したが、酔いに任せて話を続けた。

「人生、思い通りにならないよな」

彼は笑った。「そのままじゃ、何も変わらないぜ」

彼の名は鈴木、表向きは不動産業だが、裏では様々な商売をしているらしかった。その夜、俺は彼に誘われるまま、歌舞伎町の奥へと足を踏み入れた。

最初は簡単な仕事だった。怪しい荷物を運ぶだけ。次第に内容を知るようになり——薬物、偽造品、時には違法な賭博の金の運び役。

「これ以上はできません」

一度だけ拒否したことがあった。鈴木は優しく微笑み、「もう俺たちの仲間だろ?」と肩を抱いた。その言葉の裏に潜む脅しを感じながらも、俺は黙って頷いた。

給料は良かった。初めて高級マンションに住み、高級車を買い、高級店で食事ができるようになった。しかし夜、目を閉じると、故郷の風景と母の顔が浮かぶ。そして、どこかで聞こえる良心の叫び声。

それから五年後、警察の捜査が厳しくなり、組織は焦りを見せ始めた。

「今回は特別な仕事だ」

鈴木は真剣な顔で言った。競合グループの幹部を排除する——つまり殺せという命令だった。

「俺にはできません」

断った瞬間、鈴木の表情が変わった。「もう選択肢はないんだよ、佐藤」

その夜、何度も電話がかかってきた。無視し続けると、翌朝、アパートの前で待ち伏せされていた。

「最後のチャンスだ」

恐怖と自己保存の本能から、俺は頷いた。

雨の夜だった。ターゲットは高級ホテルから出てくる予定だった。心臓の鼓動が耳に響く中、俺は待ち構えていた。

彼が現れ、傘を差しながら車に向かう。その時、後ろから近づき——

血の色は思ったより鮮やかだった。叫び声は思ったより静かだった。そして罪悪感は、思ったより重かった。

逃げる途中、警察の巡回に遭遇した。パニックになり、持っていた拳銃を発砲。警官一人が倒れ、もう一人が応戦。肩を撃たれながらも、俺は何とか逃げ切った。

しかし組織は既に俺を見捨てていた。「鈴木さんはどこですか?」という問いに、誰も答えてくれなかった。

一週間後、ホテルの一室で逮捕された。

裁判は早かった。証拠は揃っていた。警官殺害未遂と殺人罪。弁護士は「情状酌量の余地がある」と主張したが、裁判官の表情からは結果が見えていた。

そして今、死刑囚として、最後の日々を過ごしている。

面会室で、学生時代の友人が訪ねてきた。唯一の訪問者だ。

「外はもう春なんだ」と彼は言った。

窓のない部屋で、季節の移り変わりも感じられない。時間だけが、砂時計のように少しずつ減っていく。

執行の前日、看守が特別に頼みを聞いてくれた。

「最後に何か書き残すか?」

紙とペンを渡され、俺は震える手で書き始めた。

渋い歌声に乗せて歌詞が浮かぶ


#零れ落ちた夜を拾い集めて

あの日から、毎晩、悪夢にうなされる。殺した男の顔、撃った警官の表情、裏切った鈴木の笑顔。

全ての記憶が零れ落ちては、俺を責め続ける。それらの断片を拾い集め、意味を見出そうとするが、無駄だと知っている。


#明け行く空に放り投げ

明日、全てが終わる。この苦しみも、後悔も、全て明け行く空に放り投げて消えていくのだろう。

もう逃げ場はない。そして不思議と、それが救いのように思える。


#昨夜の酒に泳ぐ酔漢れは

酒に溺れていた日々を思い出す。現実から逃げるために、麻痺するために飲み続けた。

酔いに身を任せ、自分を見失っていた。そんな男が、取り返しのつかない過ちを犯すのは、必然だったのかもしれない。


#みずたまりの向こうも見えない

涙で視界が滲む。雨上がりの水たまりのように、未来も過去も全てが歪んで見える。もう何も見えない。ただ、暗闇だけが広がっている。


#人はみんなPrisoner

今になって分かる。檻の中にいるのは俺だけじゃない。あの街で必死に生きる人々も、それぞれの檻の中で苦しんでいる。違うのは、彼らはまだ希望を持っていることだ。

俺のように絶望の檻に閉じ込められていないことだ。


#広い都会の見えない鎖に

東京という都会は、自由に見えて、実は見えない鎖で人々を繋いでいる。欲望、焦り、孤独、比較、嫉妬——俺もその鎖に繋がれ、自分を見失った一人だった。


#繋がれても踊り続けるよ

それでも人々は生き続ける。踊り続ける。俺のように転んでも、また立ち上がる強さを持っている。もし俺にもその強さがあれば、違う道を選べたのだろうか。


#踊り続けるよ

もう一度やり直せるなら、俺も本当の自由を求めて踊り続けたかった。でも、もう遅い。


#忘れかけた心の痛みと

都会に出て、成功を夢見た頃の純粋な思いを、いつの間にか忘れていた。金のために心を売り、痛みを感じなくなっていた。今、全てを失って初めて、本当の痛みを知る。


#古い回帰の上を彷徨うか

人生は巡り巡って、また同じ場所に戻ってくるのだろうか。死んだ後、また別の形で生まれ変わり、同じ過ちを繰り返すのだろうか。それとも、全ては消えて無になるのか。


#あぶく銭で変える幸せを

簡単に得たお金で、本当の幸せは買えなかった。一時の快楽、表面的な成功、それらは全て泡のように消えていった。本当の幸せは、もっと別の場所にあったのに。


#錘ぎながら生きていこうか

もう一度チャンスがあるなら、一歩一歩、地道に人生を錘いでいきたい。近道を選ばず、泥臭く、でも誠実に生きていきたい。そんな後悔が、今は胸に重くのしかかる。


看守の冷たい声が響く――「もう時間です」。

その一言とともに、かつて恐怖に支配され、後悔に苛まれた日々が、一つの光景として心に浮かんだ。

失われた夢、絶望の夜、そしてどこかでひそかに感じた温かな記憶――すべてが、今この瞬間に集約され、意味を持っていた。

死刑台へと向かう足取りは、かつての重い鎖ではなく、深い静寂と悟りに満ちていた。

振り返れば、あの日々の苦しみは、己を磨くための試練であり、どんなに痛んだ過去も、今の自分を創り上げる大切な一部であった。

小さな窓から差し込む朝日は、かつての闇を柔らかく包み込み、無限の時の中にひっそりと輝く一筋の希望のように見えた。

心の奥深く、ふとした瞬間に「人生は一度きり。その一瞬一瞬に真実が宿る」という確信が生れる。恐れや悔いは、ただ過ぎ去るべき風景に変わり、全てが静かなる光へと昇華していくのだ。

その時、俺は初めて、全ての過ちさえも愛おしく感じた。生きた証として、儚くも美しいこの瞬間――すべてが一つの大いなる旅の結晶であり、終わりであると同時に新たな始まりの予感であった。

そして、足を進めるその一歩は、死を迎えるためではなく、己の魂が永遠へと溶け込むための、静かな解放の儀式であった。俺は、すべての瞬間を胸に刻みながら、深い達観の中で、静かに最後の踊りを始めた。

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