一人娘の場合(七)
ちょっとふくれっ面の薫である。ジッと美雪を睨み付けていた。
ママにはどうにも勝てそうにない。パパが不在のときのママは、物凄く怖いのだ。言うことを聞かないと、グッと睨み付けて一言。
『言うことを聞かないとぉ、パパに言いつけるよっ』
恐怖である。パパには『何をしたって良い』と決まっている。
全くの安牌。まだ東二局だが、そう確信していた。何せ一度だって怒った所を見たことがないし、怒られたことだってない。
大抵は目を垂らして『駄目だよぉ』と言うだけなのに。
ママみたいに腕をブンブン振り、かつ足だって地面をダンダンと踏みつけて、『プレッシャー』を掛けるようなことは絶対に無い。
それでも駄々を捏ねれば、『可愛い可愛い』と言いながらギュッと抱きしめて来るだけ。両手をピクリとも動かせないようにだが。
後は『ごめんなさい』と言うまで、薫の顔をおひげでジョリジョリして来るのみ。それだけだ。因みに『髭剃り後』は全然痛くない。
「じゃぁ、お歌うたってぇ」「良いぞぉ。ほれ、寝れれぇ」
美雪は『子守歌なら』と思ったのだろう。フンと鼻息をして、皿洗いに行ってしまった。薫は元気良く布団へと走って行く。
先ずは掛け布団の上からダイブ。『パフッ』と飛び込んで、それから横に転がって布団の中に納まるのが最近のスタイル。
その後で、はみ出している足を何とかするのは明人の役割だ。
薫は『子守歌』を待ち受ける割には、目を爛爛と輝かせている。
布団を顎まで被り、布団の淵を握る小さな指だけが見えていた。準備万端と見た明人は、両手をへその前で組み胸を張る。
そしてまるで『オペラ歌手』のように歌い始めたのだ。
「しぃずぅかなぁぁよぉふぅうけぇにぃ、いぃつぅぅもいつもぉ♪」
歌い出したのは、いつもの『遥かな友に』である。
「おぉもぉおいぃぃだすうのぉはぁ、おまえぇぇえのことぉ♪」
随分古い曲ではあるが、生田家の伝統であるから致し方ない。
「おぉやぁすぅみぃいぃやすらかぁにぃ、たどれぇゆめぇじぃ♪」
確かに『おやすみ』と『夢路』が出て来るので子守歌には最適か。
「おぉ・やぁぁ・すぅみぃたのしくぅうぅうぅうぅっ」「うふふっ」
薫はそうでもない。大音量で歌い上げる表情に笑うばかりだ。
「こぉよぉいぃぃもぉぉ、まぁぁたぁぁ♪」「ンフフッ」
薫はまだ笑っている。顎までだった布団を口まで覆うようにして。
「あかるいぃ」「一・番・だ・け・っ! 大きな声で歌わないっ!」
二番を歌い始めた所で、『夜の歌謡ショー』は打ち切られた。
明人はオペラ歌手から一転。『ハッ』となって目を見開くと、かかあ天下のパパに戻る。
薫はそんな『ハッ』となったパパの顔を見て、面白くて仕方がない。電気を消すまでの間、もうちょっと見ていたいと思うのが人情と言うものだが、それをグッと我慢した。二歳児にしてはお利巧だ。
もし『起きている』とママにバレたら、今度から『お歌もダメ』と言われ兼ねない。だから布団を被って寝たふりだ。
「おやすみ」『おやすみなさい』
薫の小さな声。何だ、やっぱり『起きている』ではないか。そりゃそうだ。そんな直ぐには眠れん。それでも明人は笑顔で明かりを消すと、静かに扉を閉めた。
明人は皿洗いを手伝い、美雪と寝室へ向かう。夜はこれからだ。
引用 磯部俶 作詞・作曲『遥かな友に』




