一人娘の場合(六)
ちびっ子の歯磨きは面倒である。しかし大切だ。
歯を綺麗にするのが目的ではなく、食べ物を美味しく頂くためにと思えば、まだ納得も出来る。虫歯なんて論外だ。
例えば『肉』を噛み締めたときの『あぁ肉だぁ』の感触は、入れ歯では感じることが出来ない。らしい。
噛んだときの衝撃を、歯茎が柔らかく受け止める。
その先にある神経が『キタキタキタキタァァァッ』と騒ぎ立てることで、総合的に『肉を食らう感覚』になるとは。
人間の体は、実に良く出来ているものだ。我ながら感心する。
「もう終わりぃ?」「まだまだ。今度右側ねぇ」
薫は歯磨きを嫌がっている。左側だけで済まそうとしているのか。
「さっき、フガフガ、磨いたのにぃ」「さっきはさっき。今は今」
父親が歯磨きの面倒を見るときは、決して逃れられない。それは薫自身も『普段の遊び』から自覚しているようだ。
キックをしてもパンチをしても、明人は一見おどけているばかり。だが『もー怒った!』となってしまったら大変! 直ぐ逃げないと。
捕まったら最後。幾ら手足をバタバタさせても逃れられぬ。もう『ヒーヒー』言うまで『コチョコチョ』されてしまうのだ。
だから最近は目が大きく『なる/ならない』を良く観察している。
しかし明人は『右利き』であるからにして、最初に磨いたのは薫の右側である。だから次に磨くのは『左側』のはずであるが、呑気な父親と娘はどちらも気が付かない。
ケースバイケースで右と左が入れ替わるのが、明人の良い所だ。
明人にしてみれば、人の分までシュークリームを食べたのだから、その分『多目に』磨いておこうと思うだけ。何ら間違いではない。
しかし明人の考えと現実には乖離があったのだ。
美雪だって、そこまで食い意地が張っている訳ではない。今日は。
ちゃんと『明人の分』のシュークリームを皿に移し、厳重にラップでくるんで冷蔵庫に保存してあったのだ。
仮に今夜、明人が食べなかった場合、『明日』には自動的に所有権が美雪に移動するだけだ。所有権の移動まで残り三時間十五分。
「ハイハイ。歯磨いたら寝ましょうねぇ」
ツツーっとリビングに駆け込んで来た薫に、美雪が声を掛ける。
すると薫は振り返った。どうやらまだ寝たくないらしい。
「パパ、本読んでぇ」「良いよぉ。広辞苑か? 古語辞典か?」
遅れて現れた明人は、ニッコリ笑って頷いている。しかしその『本のチョイス』は、二歳児向けにはどうかと思うのだが。
しかし薫にしてみれば『いつものこと』なのだろう。
「そゆんじゃないやつぅ」
平然と答え、明人に背を向けると本棚へと走り始めていた。
「そかそか。じゃぁ今日は時刻表か?」「そゆんじゃないやつぅ」
ちゃんと聞こえていて、尚且つ内容も理解しているのだろう。
「何だぁ。折角生きの良い山手線が入荷したのに。三分間隔だぞぉ」
「これ読んでぇ」「カチカチ山かぁ。くぬぎ山ならあるのになぁ」
薫の反応はイマイチである。美雪に至っては何も判っていない。
「もう遅いから、ご本はなぁし」「だ、そうだ」「えーっ」
ニッコリ笑いながらも、ビシっと布団を指さす美雪。絶対だ。