新婚夫婦の場合(一)
生田明人はシュークリームが好きである。
エクレアと違って毎日は食べられないが、それでもプチシューなら何とか行けるのではないかと思っている。そうだ。行ける。
来週の土日は月替わり。近所のスーパーで安売りがある。妻に相談してみよう。きっと笑顔で『明確な答え』が得られるはずだ。
「ただいまぁ。今日のお土産はシュークリームですよぉ」
玄関のドアを開けると、リビングから聞こえていた『ブオブオ』が止む。直ぐに、目を見開いた妻の顔が見えた。美雪だ。
「お帰りなさいっ! あなたっ!」「はい。お土産ぇ」
シュークリームが入った箱を前に突き出すと、それを目掛けて愛しい妻が一目散に廊下を走って来る。いや止まった。手にしていたドライヤーのコードが、めい一杯伸びきってしまっている。
ドライヤーを持っているのを不思議に思いながら引き返す。
やっぱりプチシューより、延長コードの方を先に買わないといけないのだろうか。しかしこの間、僅か三秒。
明人は笑顔のまま、ジッと妻・美雪の再登場を待つ。
「お帰りなさいっ! あなたっ!」「はい。お土産ぇ」
繰り返される日常に飽き飽きしているなんて、贅沢な悩みだ。
そんなの考えたことも無い。一度の帰宅で二度『お帰りなさい』を聞くことだって、全然珍しいことではない。
明人だって二度『行ってきます』と言ったのだが、妻の美雪は嫌な顔なんてしない。笑顔で送り出してくれたではないか。
「あら、またシュークリームなのね」「要らない?」
「まぁさぁかぁ。頂くわぁ。ありがとぉ♪」
さっさと行ってしまった。新婚夫婦に『シュークリーム六個』は少し多かったかもしれないが、致し方なし。生田家のルールなのだ。
『シュークリームは、必ず箱買いせよ』
何代前からなのかは知らないが、少なくとも古くから生田家に残る言い伝えの一つだ。そうすることで、家族の幸せが守れるらしい。
だから家庭を持ったばかりの明人は、それを忠実に守っている。
生きて行くのに『かけがえのない』もの。それは家族だから。
ご機嫌な美雪の後を追い掛けて、自室と台所へと別れた。
と言っても小さなアパートだから、お互いの姿は確認出来る。
美雪が冷蔵庫の手前でクルリと振り返ったのが判って、明人はネクタイを緩める手を止めた。
「あなた食べるの?」「うーん。どうしようかなぁ」
好物を目の前にして悩むのも、二人が大人である証拠と言えよう。
人として文化的な生活を常とし、社会の規範を守り法令をも遵守する。そして、欲望のままに生きることを戒めてきた。
人間という動物が、唯一『人』と呼ばれる所以がそこにある。
「俺は良いや」「そう。じゃぁ冷蔵庫に入れておこぉっと!」
シュルリとネクタイを外しながら、リビングの時計を見る。
世間的には二十三時半を回った所だが、明人にはそれが何日の何時なのかが全く判らない。実に三日振りの帰宅。もう昼も夜も無い。
だから判るのは、早く風呂に入って眠りたい。それだけである。
新婚を理由に、自分だけ帰してくれた仲間に感謝。だから明日は、何が何でも六時には起きて、再び会社に行かなければならない。