引き継ぎ
やりかけの仕事を急いで片づけて、引き継ぎの日。アニエスは感傷にひたっている暇もなかった。
ウスター子爵は、ドナルドが宰相に就く以前から宰相補佐官だった中年の男性文官だ。身分や性別に関係なく誰に対しても厳しい人だから、王太子のフェルナンにも容赦なく意見してくれるだろう。
「日誌は筆頭補佐官がつけることになっています。私は都度記入していましたが、私の前任者は週の終わりにまとめて記入していたようですので、手順はお任せします」
「先の予定の管理は?」
「それはこちらの手帳に。メモ書きも多いので読みにくくてすみません。延期や中止になった予定も念のため日誌に控えてありますので、過去に関しては日誌を見ていただいた方が把握しやすいと思います」
「ああ、なるほど。理由も添えてあるとわかりやすいですね」
ぱらぱらと最新の日誌をめくる子爵に、棚を開けて見せる。
「過去の年度のものはこちらの棚にあります。例年の行事や仕事もあるので、定期的に昨年の日誌を確認しています」
子爵は一冊取り上げて中を確認している。
引き継ぎは滞りなく進んでいた。
宰相補佐官と王太子補佐官は仕事内容も似通っているため、ウスター子爵はアニエスの説明をすぐに理解してくれる。
それに、もしアニエスが退官したあとに不明点が発生しても、他の補佐官が教えることができるだろう。
アニエスにしかできない業務などひとつもない。むしろそんな業務があるのは組織として問題だ。筆頭補佐官に就任して以降、アニエスは自分が不在でも他の補佐官が代わりにできるように整えてきたのだ。
それはわかっているが、自分はもう必要ないのだと突きつけられているようで、胸が痛い。
「マネジット補佐官、こちらの赤い表紙は何が違うのですか?」
ウスター子爵にそう聞かれて、アニエスははっと意識を戻した。
彼が一冊取り出したのは、フェルナンとエマニュエルの日誌だ。
「それは、殿下の……」
「マネジット」
アニエスが説明しようとしたところ、フェルナンが声をかけてきた。
「その日誌は今後は私が管理するよ」
「えっ?」
大丈夫なのか、と視線で問うと、フェルナンは大きくうなずいて手を差し出した。
かっこつけずにエマニュエルに覚えられないと正直に話せばいいのにと思っていたアニエスだ。ちょうどいい機会だろうと「承知いたしました」と、棚から赤い日誌を取り出す。王太子夫妻の婚約時代から五年分ある。
気を利かせたウスター子爵がフェルナンの執務机まで持って行ってくれたのだが、他の補佐官が不安げにそれを目で追っていた。
「結局こちらは何の日誌なのですか?」
「ああー、そうだな。あれだ。私の私的な記録だ」
遠慮なく尋ねる子爵にフェルナンは笑ってごまかした。
フェルナンは彼に対してもかっこつけていたいようだ。ベテラン文官のウスター子爵は目付け役のように思えるのかもしれない。
その点、アニエスは年下で女で、弱みを見せてもよい相手だったのだろう。それは侮りではなく、頼られているとも少し違うだろうが、できない部分を申告してもらえた方が補佐官としてはやりやすい。そういえば、王太子補佐官は高位貴族の出身者がおらず下位貴族や平民出身ばかりだし、皆フェルナンに年が近い。今思えば、それも亡きグレース王妃の采配かもしれなかった。
一通り説明したあと、資料を確認する子爵には応接セットに座ってもらい、アニエスは私物を片づけた。
雑巾を取りに行こうと背を伸ばすとジルと目が合った。アニエスはそのまま執務室を出る。少し先で立ち止まっていると、思った通りにジルは追いかけてきてくれた。
「不自然に思われませんでした?」
「図書館に資料を返すと言って出てきました。リッツとブレディも本を押し付け、もとい協力してくれましたからね」
ジルは抱えた数冊の本を軽く揺らして示した。
「アニエスさんから声をかけていただけるのを待っていたのです」
「すみません。昨日は手元の仕事を片づけるのに必死で」
「ですよね。わかります。いきなりですものね」
眉を下げたジルに、アニエスは、
「ジルさんは宰相閣下から聞いていたのですか?」
「ええ。筆頭補佐官を打診されましたが、断りました。僕はアニエスさんと一緒に仕事がしたいので」
そこまで請われる理由が全くわからない。
「私の元でも、ウスター子爵の元でも、変わらないでしょう?」
「部下としてどうこうではなく、アニエスさんの近くで一緒に仕事がしたいんですよ」
警戒がアニエスの表情ににじんだのか、ジルは慌てて首を振った。
「違います。恋愛じゃないです」
ジルは人好きのする笑顔を浮かべると、
「アニエスさんの仕事を見ているのはおもしろいんですよ。特に調べものは、探偵小説の謎解きを読んでいるような爽快感があるんです。極秘の監査官なんて、どう考えても楽しそうな予感しかしないです」
「やりがいのある仕事、じゃないんですね……」
コレットのロマンス小説に続いて、ジルは探偵小説か。
複数の案件を同時に進行させたり、王太子妃の要望通りのものが用意できたときなどは、自分でも気分がいいので、ジルが言いたいことはわかるけれど。
「宰相閣下にも話したのですが、嫁いでから状況を見て手が足りなければお願いするのでも良いですか?」
「わかりました。それまでにこちらでできる限り調べておきますね。辺境伯領に移るのはいつですか?」
異動する気満々なジルに聞かれて、アニエスは難しい顔をした。
「ミナパート公爵家やフィリップ様との顔合わせもまだですから、何とも言えませんね」
アニエスの実家に公爵家から求婚状が届いているらしい。昨日、実家の父から慌てた手紙が届いたため、帰ったら説明するとだけ返事を送っておいた。明日には帰宅する予定だが、気が重い。
「監査だけなら早々に出立したいのですけど、結婚ですからね」
結婚だけならできるかぎり先延ばしにしただろう。それを見越しての辞令だったら、さすが宰相だ。
「フィリップ様はもう騎士団を退団して、領地に引っ越されているそうですよ」
アニエスも知らないことをジルが教えてくれる。
「おそらくあまり婚約期間を設けずに結婚となるんじゃないですかね」
「わかりました。私も心構えをしておきます」
日程が決まったら改めて連絡することにして、その話は終わった。
「僕はアニエスさんについて行くつもりなのでいいのですが、赤い日誌の件、リッツたちが心配していましたよ」
ジルが今まで以上に声をひそめた。
「うまくいかないに皆が賭けて賭けになりません」
書類を回す振りをしてよく何かやっているのは知っていたけれど、アニエスは呆れる。「ウスター子爵に見つからないようにしてくださいね」と苦言を呈するにとどめた。
「私は良い機会だと思いました」
「記念日が原因で殿下たちが喧嘩になってもいいと? ささやかな報復ですか?」
「え? そんなつもりはありませんよ」
アニエスは首を振ったけれど、喧嘩になったらなったで『ざまあみろ』と思わない自信はない。
「他者の手を借りてまで取り繕うよりは妃殿下に正直に話したほうがいいと、前から思っていたので」
その流れでアニエスは思い出した。
「殿下は私たちには気軽に何でも頼んできましたけれど、ウスター子爵にはどうでしょう? まだ初日なのでこれから慣れてきたらわかりませんが、少し気を張っているように見えました」
「ああ、確かに。そうですね」
ジルも心当たりがあるのか、うなずいた。
「ウスター子爵が執務室にいないときに殿下に話しかけたりして、気を配るように他の皆さんにも伝えてください」
不要なメモなどを処分すると、持ち帰る私物は一箱におさまってしまった。支給品の文具で済ませていたせいもある。
終業前に席を明け渡すことができた。
寮は後日改めて実家から使用人を連れて片づける予定だ。
「殿下、長い間お世話になりました」
「こちらこそ、ずっと勤めてくれてありがとう」
フェルナンに労われ、補佐官たちに見送られ、アニエスは執務室を後にする。
背後でぱたんと扉が閉まった。
執務室の扉の外には常に二人の護衛騎士が控えていた。
人員は交代制だが担当している班は同じため、皆顔見知りだ。アニエスは振り返って礼をする。
「騎士の皆さんにもお世話になりました」
たまたまなのか合わせてくれたのか、今日の担当のひとりは女性騎士のセシルだった。
「セシルには本当にお世話になったわね」
王太子補佐官になったばかりのころ、文官からも敵視されていたアニエスを心配して、グレースが女性騎士をつけてくれた。騎士を伴って歩くとさらに反感を買いそうだったため、セシルともうひとりの女性騎士マリーはわざわざメイドの格好をしてくれたのだ。文官からの嫌がらせは一年ほどでおさまったから、今ではアニエスもひとりで中央棟を歩ける。マリーは二年前に結婚退職したが、セシルは王太子執務室の警護担当の班にずっと所属していた。
「アニエス様のおかげでできることが増えました。こちらこそありがとうございます!」
元気に頭を下げたセシルはアニエスより年下の二十三歳だと聞いた。
「マリーに会う機会があったら彼女にもお礼を伝えておいてね」
「はい!」
セシルたちに見送られて、アニエスは廊下を歩き出す。
中央棟を出て、回りに誰もいなくなってから、アニエスは抱えた私物の箱を見つめた。
実にあっけない。
他の令嬢が恋や社交や遊びに明け暮れる十代後半から二十代の期間を捧げた仕事だった。
もちろん後悔はしていない。好きなことをして過ごしたというなら、アニエスだって他の令嬢に負けていない。
それでも虚しさを感じるのはどうにもならない。
こうしてアニエスの九年間の王宮文官生活は幕を閉じたのだった。
「次の役職は辺境伯夫人よ」
(せっかく早く上がれたのだから、荷物を置いたらペルトボール辺境伯領の資料でも探しに行きましょう)
アニエスは無理やり気持ちを切り替えて、顔をあげた。