アニエスとコレット
夜、アニエスが女子寮の部屋にいると、扉が叩かれた。
「アニエスー! いる? コレットよ」
「はいはい。どうぞ」
アニエスが開けると、酒の小瓶やグラスが載った盆を持ったコレットが入ってきた。
コレット・ランドルクは王宮メイドだ。アニエスがグレースの補佐官になったとき、コレットは国王夫妻の暮らす薔薇宮の所属だった。それで知り合って親しくなり、異動してからも友人関係が続いている。
彼女は王都で百貨店を経営するランドルク商会の娘で、平民だけれどアニエスの実家よりよほど裕福な家の出身。アニエスより二つ年下の二十五歳だ。
アニエスも、退官や結婚のことをコレットに話したいと思っていたところだった。
「あとで私から会いに行こうと思っていたんだけれど、あなたのほうが早かったわね」
「もっと早く駆けつけたかったくらいよ! 聞いたわよ。結婚するんですって?」
「相変わらず、早いわね。もう中央棟のメイドにも広まっているの?」
「あなたが文官を辞めるってことは、いけすかない連中が広めまくってるわよ。結婚の情報は別口から広まっているから、宰相閣下あたりがフォローされているのかも」
コレットは顔をしかめた。
彼女はグレースが亡くなったあと、執務室や会議室、謁見室などがある中央棟に所属変更になった。アニエスの仕事場も中央棟だ。
コレットは勝手知ったる様子で、サイドテーブルに盆を置いてから椅子に座る。アニエスはベッドに腰かけた。
女子寮に役職付き向けの広い部屋の空きがなかったため、アニエスはずっとこのひとり部屋を使っている。ベッドが部屋の半分を占め、窓辺に書き物机、壁側に書棚とクローゼット。――ふたり部屋や大部屋よりはいいが、実家の自室よりも狭い部屋だった。
しかし十年近く暮らせば愛着もある。私物も増えているし、退去のために片づけるのは億劫だ。
「いけすかない連中?」
「ワッカー子爵とイリージュ男爵」
「ああ、女が文官なんてっていつも文句をつけてくる方々ね。いつも何をしに王宮まで来ているのかしら。王宮に勤めたいなら人事に売り込めばいいし、政界で活躍したいなら領地経営に精を出したり議会で有益な発言をしたりすればいいのに」
「うーん、まあ、それはそうなんだけれど。あの方たちは、アニエスに求婚を断られたから根に持っているのよ? 覚えてないの?」
「覚えてるわ。覚えているけれど、卒業前後の話でしょう? 十年近く前のことよ。……え? まさか本当に?」
「そのまさかよ。根に持っているのもあるけれど、まだ未練がある感じもするわねー」
アニエスの見た目は、緩いウェーブのかかったピンクブロンドに、かわいらしい顔立ちだ。学生時代は今と違ってひっつめ髪でもなく、姉たちのお下がりを手直したそれなりに華やかな服装だった。
弱小伯爵家の三女で、高嶺の花でもなく、同じくらいか下の爵位の男性の手ごろな縁談相手とみなされていた。しかし、文官になることを決めていたアニエスは届いた縁談をかたっぱしから断っていた。
両親は姉たちの嫁入りで疲れ切っていたため、持参金の話を持ち出して説得したら、アニエスの希望を認めてくれた。
「この歳で職を失ったら、なりふり構わず結婚相手を探すと思われたんじゃない?」
「私と結婚したくて、そのために文官を辞めさせようとしていたってこと? 女が文官をやっているのが目ざわりなんじゃなくて?」
「まあ、それもあるでしょうね。でも、求婚するつもりだったと思うわよー」
「全く理解できないわ」
アニエスは寒気がして、両腕をこすった。
コレットが「これ、うちの商会の一押し」とレモン酒をソーダで割ってくれる。一口飲むとさわやかな酸味と炭酸が、嫌な気持ちを洗い流してくれるようだ。
「でも、お相手は格上の辺境伯だし、王太子殿下の従兄だし。こう言っちゃなんだけれど、嫁き遅れの割には破格の縁談よね。ワッカー子爵やイリージュ男爵は、戦に勝って勝負に負けた? 策士策に溺れる? って、策士じゃ持ち上げすぎね」
「そうよね。結婚したい人にとっては願ってもない縁談なのよね」
うまくいかないものだ。
誰かに譲れるのなら譲ってあげたい。
「フィリップ様も、私じゃなくて、もっと若い令嬢と結婚したいんじゃないかしら」
アニエスがそう言うと、コレットも首をかしげる。
「好条件な方なのに今まで独身でいたのよねぇ。何か理由がありそうじゃない?」
「確かに、私の姉たちが同年代なのだけれど、当時から縁談をお断りしていたみたいね」
「これは、あれよ」
コレットは意味ありげに目くばせすると、
「辺境伯といえば?」
「……君を愛することはない……?」
アニエスの答えにコレットは「そうよ、これよ!」と手を打つ。
「『あいはて』のオーギュスト様みたいに、女性に嫌な思い出があるに違いないわ!」
「まさか」
アニエスは苦笑する。
『あいはて』こと『この辺境で愛には果てなく~愛を忘れた辺境伯と愛を知らない王女の物語~』は人気の恋愛小説だ。
戦争に行っている間に婚約者に裏切られた辺境伯オーギュスト。身分の低い側妃の子どもで、誰からも顧みられずに育った王女カミーユ。そのふたりが結婚して愛をはぐくむ恋愛物語だ。お互いに愛し方がわからずにすれ違ったり、辺境伯の元婚約者が出てきてひっかきまわされたり、仲良くなったところでまた戦争が起きて辺境伯が出陣したり、と波乱万丈な展開だ。本編は一冊で完結しているのだけれど、演劇になったり、脇役に光を当てた番外編や次世代編も出版されたり、人気は続いている。
ちなみに、このモデラート王国は一夫一妻制のため側妃はいないし、戦争も三百年前から起きていない。辺境伯家は五つあるが、数代さかのぼってもモデルになるような人物はおらず、完全なる架空の創作物として親しまれていた。
その『あいはて』の冒頭で、戦功の褒賞として降嫁してきた王女に対して、辺境伯が「君を愛することはない」と宣言するシーンがある。
「あなたが結婚したあとに『あいはて』が出版されてたら、絶対皆あなたがモデルだって考えたわよ」
「そんなわけがないでしょう」
アニエスは片手を振ってコレットの言葉を否定した。
しかし、自分が愛されるかどうかについては、自信がない。
「でも、フィリップ様も突然の王命だろうし、受け入れてもらえるかはわからないわね。愛さない宣言はされてもおかしくないかもしれないわ」
「そんなことないでしょ!」
今度はコレットが否定する。
「年はあれだけど、アニエスの見た目は一級品よ。性格もかわいいとは言い難いけど」
「褒めているよりけなしているほうが多くないかしら?」
茶化したコレットをアニエスは睨むふりをした。
そこで、ふっとコレットは真面目な顔になり、「あなたは?」とアニエスに向き直った。
「あなたはいいの? ずっと文官でやっていくつもりだったのに、結婚なんて」
気落ちしてなさそうだから今まで触れなかったけど、とコレットはアニエスの顔色を窺う。
コレットの気遣いに「ありがとう」と答えて、アニエスは思いを口にする。
「そうね……。正直言うとふざけるなって叫びたいくらいだけれど、客観的に見たら王太子妃殿下の気持ちもわからなくはないのよね。外野の声もうるさいし」
「まあ、あなたは見た目は妖精だものね。王太子殿下も宰相閣下も他の文官も、あなたを女扱いしている人なんていないけど」
再び茶化すコレットに「しつこいわね」とアニエスはつっこんでから、
「後ろ盾になってくださっていたグレース様も亡くなってしまったから、仕方ないわよね。結婚したら、辺境伯夫人として領地経営に励むつもりよ」
「え? 励むのは社交や子作りじゃないの?」
「ちょっと問題ありの領地らしくって、今から楽しみなの」
アニエスが珍しく微笑むと、コレットは肩をすくめた。
「呆れた……。『君を愛することはない』はアニエスのセリフってわけ?」
「そんなつもりはないわよ。恋愛はともかく、親愛や敬愛は私だって理解できるわ」
「なに言っているのよ! 『あいはて』の愛は、恋愛一択よ!」
拳を握るコレットに、アニエスはため息をつく。
「もう、『あいはて』から離れてちょうだい」
「あ、待って」
「今度は何なの?」
ぽんっと手を打ったコレットにアニエスは眉を寄せる。
「あなた、学生時代に騎士に助けられたって言ってたわよね?」
「ええ、そうだけど……」
「誰だかわからなかった謎の騎士様がフィリップ様だったり……」
「しないわよ」
アニエスはばっさり切り捨てた。
「顔は見えなかったけれどなんとなくの体型くらいは判別ついているわ。当時もフィリップ様は熊みたいな……」
姉たちから聞かされていた言葉をそのまま口にしかけて、アニエスは言い直す。
「じゃなくて大変立派な体格だったらしいから、別人よ。ロマンス小説のような展開は期待しないで」
「えーそんなの、つまらないじゃない!」
「つまらなくてけっこう。私の辺境には恋愛以外の愛もあるの」
口をとがらせるコレットにアニエスは宣言した。
「妻として受け入れられてもらえなくても、文官として受け入れてもらえるようにがんばるわ」