アニエスの長期的課題
※第四章の直前
王城の夜会に参加するため、アニエスとフィリップは王都に出発することになった。
コレットとセシル、アンドレを始めとしたフィリップの部下たちも一緒だ。
見送りに並ぶ執事のナタンやメイドたちの中に、ジルとジャコブもいた。そこからジルが一歩前に出てくる。
「奥様、こちらをどうぞ。研修中の報告官たちから特産物のおすすめ調理法を聞いてまとめておきました。産地ならではの食べ方もあるようですから」
「まあ! ありがとうございます。助かります」
アニエスはジルから書類を受け取る。
領地で採れた日持ちのする野菜や加工肉を載せた荷馬車を先行させていて、途中で寄るアニエスの実家や王都のミナパート公爵家への土産にするつもりだった。調理法は料理長からも聞いていたけれど、ジルの書類も役に立ちそうだ。
すると、フィリップがアニエスの手からさっと書類を取り上げた。
「君は馬車の中で読みかねないからな」
それには少しも反論できないアニエスだった。
馬車はのどかな田園風景の中を北に進んでいく。北隣の領に東街道の終点があるため、そちらから街道を使うと王都まで早いし、アニエスの実家マネジット伯爵領にも立ち寄りやすい。
アニエスは景色を見て楽しんでいたが、フィリップの反応が芳しくない。
彼は腕を組んで、難しい顔をしている。
「フィリップ様、何か問題でもございましたか?」
アニエスが声をかけると、フィリップははっとしたように顔を上げた。
「すまない、君といるときに考えごとなど!」
「いいえ、それは構いませんが……その考えごとは、私ではお力になれないでしょうか?」
盗掘団を追っていたときでさえ、フィリップはアニエスの前で考え込むことはなかった。よほど大きな悩みなのだろう。
「騎士団に関することは私には解決できないかもしれませんが、話せば道が拓ける場合もありますし」
差し支えなければ、とアニエスが促すと、フィリップは「ある意味では、君にしか解決できないとも言えるが」と苦笑した。
「君はジル・パエリメを頼りにしているだろう?」
「ええ、一緒に仕事をしてきた期間が長いので……」
アニエスが首をかしげると、フィリップは腿の上に肘を立てて両の拳を額に当てた。そうやって顔を隠して、ぼそりと言う。
「羨ましい」
「は?」
「ジル・パエリメが羨ましい!」
フィリップはそう宣言すると、
「私も君に頼られたい。もっと正確に言うと、甘えられたい!」
「え、ジルさんに甘えてはいないと思いますけれど……?」
「ああ、もちろん。それは理解している。だからこそ、私は君に甘えられたいのだ……」
「フィリップ様には今でも甘えていると思いますけれど……」
そう主張してみたが、「まだ足りない」と首を振られてしまった。
「これは難しい課題ですね」
アニエスが過去に男性から頂戴した罵り言葉の第一位が「生意気だ」で、第二位が「可愛げがない」である。性格的に向いていない。
今度はアニエスが眉を寄せる。それを見たフィリップは慌てて否定した。
「いや、違う。これは、君の課題ではなく、私の課題だ。私が、君に遠慮なく甘えてもらえるようになりたいのだ」
「でも、先ほど、私にしか解決できないとおっしゃいましたよ」
「あー、まあ、それは言葉のあやで……」
フィリップは頼り甲斐のある人だ。アニエスは彼を頼りにしているし、甘えているつもりだった。つまり、フィリップはすでに課題を達成している。彼が未達だと考えてしまうのは、アニエスの態度が不十分だからに違いない。
(これは間違いなく私の課題だわ)
そう結論を出したアニエスは、どうすればいいか考え始めた。
甘え上手と言われて思いつくのは、義妹のポーラだ。従妹でもあるため彼女は子どものころから遊びに来ていたが、皆からかわいがられていた。
(フィリップ様は夫なんだから多少くっついてもはしたないとは言われないわよね)
それに、馬車にはふたりきりだ。見ている者もいない。
アニエスは意を決して、フィリップの正面から隣に座席を移動した。――大きな馬車だから、フィリップの隣に余裕があって良かった。
「なっ、何かあったのか?」
ぴとっとフィリップの腕に身を寄せると、彼は動揺の声を上げる。
「甘えています」
「あ? 甘えて……?」
「はい」
アニエスはフィリップにもたれかかる。彼にくっついていると温かくて安心する。
ほっと息を吐くと、フィリップの体が揺れた。笑いを堪えているようだ。
アニエスは隣を見上げて、それでも顔が遠かったから、フィリップの手を引っぱる。
「甘えてみましたが、いかがでしょう?」
アニエスは仕事の評価を待つような真面目な表情で尋ねた。――甘えている顔ではないが、アニエスに自覚はない。
「くっ。……あ、ああ。かわいいと思う」
「笑ってらっしゃいますよね?」
アニエスが目をすがめると、フィリップは「これは満足の笑いだ」と声に出して笑った。
「わかりました。この件は長期的な課題とさせてください」
(もっと満足してもらえるようにがんばらなくては!)
アニエスはそう決意したところで、ふと、フィリップの手が目に入った。
「フィリップ様。ここ、爪が欠けてしまっていますよ」
「ん? ああ、本当だ。稽古のときか?」
「痛くはないですか?」
「全く。気づいてもなかったくらいだからな」
アニエスはフィリップの手を持ち上げて、爪を指でなぞる。
「次の休憩になったら、セシルに爪やすりを出してもらいましょう。どこかに引っ掛けてさらにひどくなったら困りますから。あら、こんなところにほくろがあるのですね。まあ、これは古傷ですか? ……それにしても、以前から思っていましたが、フィリップ様の手は大きいですわね。私の手の何倍かしら?」
などと言いながら、アニエスはフィリップの手を触ったり指を絡めたり、やりたい放題だ。
はるか頭上でフィリップが赤面して耐えているなど気づきもしない。
最終的にフィリップに寄りかかって寝息をたてるアニエスに、「確かに甘えてもらえているようだが、この課題は永遠に達成しないままでもいいかもしれないな」とフィリップはつぶやいたとか。




