辺境伯夫妻のピクニック
※農村お仕事デートと同じころ?
アニエスとフィリップは、オパール鉱山にやってきた。
ホドセール教授から調査の進捗を聞きながら、外で昼食を食べるつもりだ。
最初は調査の報告だったのに、アニエスが地質学の質問も交えるから、教授の話もだんだんと講義のようになってきた。
教授は洞窟の壁の一部に灯りを向け、
「このあたりがホセ岩と呼ばれている層だね」
「教授のお名前が由来なんですよね」
「そう。マイナールノ岩と混同されていたのを、僕が別物だと特定したからね」
アニエスの後ろからフィリップが「すごい功績ですね」と感心する。
教授は「ま、長年やっているから」と笑ってから、
「フィリップ君だってフィリップ式鍛錬法のような名前がつくかもしれんよ。女史なら、アニエス駅なんてどうかね? 鉄道、決まったんだよね?」
「ええ。もしかして敷設の候補地のご相談が行きましたか?」
「うん。今は教え子たちに任せてるよ。僕はこっちの方が楽しいからねぇ」
教授は白衣の裾を翻して、洞窟をぐるりと見渡した。
同盟国を縦断する鉄道を敷くのは、アニエスが退官する前の三国会議で決まった案件だ。
モデラート王国では、今はまだ王都と西岸の港を結ぶ鉄道が運用されているだけだ。
「今回の国営鉄道への参入は難しいでしょうね。三国とも西岸や中央の領地の方が発言力がありますから」
ペルトボール辺境領は内陸側だ。鉄道は線で繋ぐものだから、ペルトボールだけががんばったところで難しい。
「だろうねぇ」
「それより、今後民間の鉄道を誘致できるように、ペルトボールの価値を上げていきたいですわね。なんなら、周辺の領地と協力して鉄道会社を興すのもありかと」
アニエスがそう答えると、フィリップが、
「君はそこまで考えてくれていたのか! 領地に作る駅は絶対にアニエス駅にしよう!」
「え、やめてください。領地の名前を売るなら、ペルトボール駅に決まっています」
「む。そうか? それなら、この鉱山をアニエス鉱山にするか?」
大真面目に腕組みをするフィリップに、アニエスは「ペルトボール鉱山です!」と声を張った。
昼食には教授も誘ったけれど、遠慮されてしまった。
アニエスたちは、鉱山から少し山を下ったところにある小さな湖に来ていた。
「このあたりは辺境伯家の狩猟場らしい」
フィリップがそう教えてくれた。
「領地もまだ知らないことだらけですね」
「ナタンが言うには、先々代のころは毎年たくさんの人を招いて狩猟大会を行っていたんだそうだ」
「まぁ! 先々代はずいぶんと社交がお好きだったんですね」
そこで、ふたりは顔を見合わせた。
「フィリップ様がご希望なら、企画しますけれど……」
「面倒だから、やりたくはないな。あ、君が企画したいなら、もちろん構わないが」
どれだけ仕事好きと思われているのか、とアニエスはため息をつく。
「私だって面倒ですよ」
湖から少し離れた木の下に防水布とブランケットを敷き、並んで座る。
今日はアニエスが一日フィリップと一緒だから、コレットとセシルは休みだ。騎士団から三人、メイドと従僕がひとりずつついて来ている。
バスケットから取り出した料理を並べると、皆、離れたところに下がった。彼らはそちらで昼食をとるようだ。
そうすると、アニエスとフィリップのふたりだけになる。
ローストチキンやゆで卵のサンドイッチは、アニエス用とフィリップ用で明らかに大きさと数が違う。色とりどりの野菜は飾り切りされていて、かわいらしい。デザートに焼き菓子もあった。
鳥がどこかで鳴く高い声が響く。優しい風がときどき草を揺らし、湖面がきらきらと光っている。
特に何も話さずに食べていたけれど、気まずくはなかった。
社交にしても、仕事にしても、話題を提供しなければ、と思うのに、フィリップに対してはそう思わない。
フィリップもアニエスと一緒にいて、無理に話題を探すようなそぶりはなかった。お互いにそうなのだろう。
(心地いいわね……)
アニエスは目を細めて、景色を堪能していた。
ふいに、フィリップが声をかけてきた。
「アニエス、そのまま動かないでくれ」
「はい?」
疑問に思いながらアニエスが動きを止めると、視界が翳った。
フィリップの顔が近づいてくる。
「え、あの、何を……」
アニエスは思わず目を閉じた。
フィリップが触れたのはアニエスの唇ではなく、髪だった。さっと手で払われたような感触。
「バッタが……」
そう言われて目を開けると、フィリップが真っ赤になって固まっていた。
(ち、近い!)
アニエスは息を呑んでフィリップを見つめた。
フィリップもアニエスを見つめたままだ。
「バッタが……君の髪にだな……」
「バッタ……」
フィリップの手から小さな虫が跳ねていった。
それを見たアニエスは、はっとして、
「あの。私。違います! そういうつもりじゃなくて!」
「待ってくれ! そういうつもりもある! 俺はそういう機会があれば積極的に狙っていきたいと思っている!」
「は?」
フィリップは後ずさろうとするアニエスの肩を掴んだ。
「もう一度、やり直させてくれないか?」
「バッタを?」
「バッタはもういない」
茶化してみたけれど、フィリップの目は真剣だった。
「アニエス、そのまま動かないでくれ」
「はい……」
動きたくても動けない。
フィリップの視線から逃れるように、アニエスは瞳を閉じたのだった。




