アニエスと宰相
アニエスが宰相の執務室に入ると、そのまま奥の部屋に通された。
王太子執務室は一部屋だが宰相執務室は二部屋に分かれていた。前室は補佐官が仕事をしたり文官が出入りし、奥の部屋は宰相がひとりで執務をしている。
机から顔を上げた宰相ドナルド・ブランベリー侯爵は、アニエスを見て眼鏡の奥の目を細める。
「来たな」
「はい。用件は退職の件でしょうか?」
「まあ、座ってくれ」
ドナルドは、五年ほど前に就任した三十六歳の若き宰相だ。王太子へ代替わりするのに備えて、他の職でも順に世代交代が進められている。
何かの書類を手にしたドナルドは、アニエスがかけたソファの正面に座る。
「婚約おめでとう、と言うのは嫌味に聞こえるかな?」
「いいえ、特には。……まあ、今は祝われてもうれしい気持ちになりませんが」
アニエスは正直に伝える。
ドナルドとの間には取り繕わなくていいくらいの気安い関係が築けていた。
「了承したんだな。意外だ。私の求婚は断ったくせに」
「王命ですもの。今回だって断れるものなら断っておりました」
アニエスはため息混じりにそう答える。
ドナルドの求婚は、恋愛感情でも家同士の政略結婚でもなく、宰相と王太子筆頭補佐官の業務提携のようなものだった。
帰宅後にも打ち合わせができて便利。繁忙期が被るのですれ違いがなくて済む。家族に口外できない案件も共に携わっているアニエスなら気兼ねなく話せる。下手な相手にアニエスが嫁いで退職を強いられるくらいならドナルドと結婚して仕事を続けてもらったほうがよい。仕事に対する姿勢が似ているため家庭不和がおきにくい、などなど。
「宰相閣下のご提案も悪くはなかったのですけれど、結婚しても仕事を続けていいと言ってくださるのが閣下だけでしたからね。侯爵家の方々の圧力はすさまじかったです」
家を通した正式な申し込みではなく本人から口頭で軽く提案された段階だったのに、ドナルドの両親のほか、どこで聞きつけたのかブランベリー侯爵家の親族も現れ、名家の嫁の心得を教授してくださった。アニエスの仕事中にだ。今考えても非常に迷惑だった。
「仕事は辞めて当然、跡継ぎの出産は最重要任務だそうですから」
それに加えてマネジット伯爵家が弱小貴族だと嫌味を言われるなど、求婚を受けたわけでもないのに、とげんなりした。こんな親族ばかりでドナルドは果たして結婚できるのかと心配になったくらいだ。実際、彼は今でも未婚だ。
「言ってくれればすぐに対処したのだが、親族が申し訳なかったね」
「いいえ。でも、結果的にはお断りしてよかったですね。せっかく業務提携したのに一方が廃業してしまったら意味がないですから」
「私と結婚していたら王太子妃殿下も悋気など起こさなかっただろう?」
「そうでしょうか」
それでも槍玉に挙げられた気がする。
「いっそ宰相執務室に引き抜いておけばよかったな」
ドナルドが苦笑する。宰相がアニエスの能力を評価してくれていることに感謝した。
「ありがとうございます。でも、亡き王妃殿下に頼まれた仕事ですから、王太子補佐官を自分の希望で離れることはなかったと思います」
アニエスをエマニュエルの補佐官にという話も出たが、グレース王妃は王太子補佐官に据え置いた。女性王族の公務は社交や慈善活動がほとんどで、政策には関わらない。それでは宝の持ち腐れになるとアニエスを買ってくれたのだ。
だが、仕事のせいでアニエスが婚期を逃していることを誰よりも気にしていたのも王妃だった。王太子の治世のためにアニエスに仕事を続けてほしい、結婚や出産といった多くの貴族令嬢が目指す幸せをアニエスも手に入れてほしい。――王妃は両方を願っていたようだ。
両方得るのが難しいなら、アニエスは迷わず仕事を取るつもりだった。王妃はそれもわかっていてくれたから、アニエスに縁談を持ってくることもなかった。
しかし、王や王太子は、貴族令嬢の幸せは結婚だと信じて疑わない。王妃のような葛藤がないため、簡単にアニエスから仕事を取り上げる。
「うれしくないと言っていたが、悲嘆に暮れているわけではないのだな」
ドナルドがアニエスを見て首を傾げた。
「そうですね。お相手のフィリップ・ミナパート様はもともと騎士だと伺いました。執務が苦手かもしれませんし、そうでなくても補佐はいるでしょう? 辺境伯夫人として領地経営に関わることができるかもしれない、と前向きに考えることにしました」
「跡継ぎの出産が最重要任務なのは、辺境伯家も変わらないと思うが?」
「う。それは……在宅勤務ですからどうにかなるのではありません? 世の中の貴族夫人は出産しても社交や家の采配をしているのですし」
一度途絶えている家だから跡継ぎなんて二の次でいいのでは、という本音は隠してアニエスはごまかす。
「社交だって必要ではないか?」
「王都から離れていますし、ほどほどでよいと思いますけれど」
「どうだろうなぁ」
ドナルドは懐疑的な目を向けてから、「ああ」と手を叩いた。
「フィリップ殿は女が文官になるのを嫌がるような小さい男ではないから、その点は安心していい」
「親しくされているのですか?」
「彼の兄と私は友人で、フィリップ殿とも交流がある」
ドナルドが保証してくれるなら、嫌な相手ではないだろう。
アニエスがうなずくと、ドナルドは書類を取り出した。
「マネジットが気落ちしていないなら不要かもしれないが」
「なんですか?」
「辞令だ」
手渡された紙を両手で受け取る。
「監査官……?」
アニエスは目を瞬かせた。
ドナルドから渡されたのは、王太子筆頭補佐官から監査官へ異動する辞令だった。
「ペルトボール辺境伯領のことはどの程度知っている?」
「縁談を先ほど聞いたばかりなので、このあと調べるつもりでした。ただ、治安が悪くなっていると少し聞いています」
「それなら、これを見てくれ」
ドナルドはアニエスに見えるように、テーブルに書類を並べる。
「こちらが去年、これがおととし、さらにその前。三年分の収支報告書だ」
アニエスはざっと見比べる。
「どれも変わりませんね。おととしは冷夏で特に南部では不作のところが多かったと思います。ペルトボールは東部ですから、それほど影響がなかったというなら納得しないこともないですが……。前辺境伯家が絶えたのが一年ほど前でしたか。領主が不在になる前と後で変わらないというのも、ありえなくはないですが、不自然に思います」
「直轄領になる前から、領主の意向で管理官が派遣されていたんだ」
「そうなのですね。……確かに、報告書の署名が同じだわ」
「明らかな不正は見つからないが違和感が多い。監査官を派遣したいが、手一杯でね」
ドナルドはアニエスの辞令を指さし、「それで、これだ」と続ける。
「辺境伯夫人のついでに監査官の仕事もしてきてくれないか。マネジットが領地経営に関わるなら管理官は廃止するだろう?」
「フィリップ様が許してくださるなら、そのつもりです」
「ああ。大丈夫だと思う。引き継ぎをする名目で不正がなかったか探ってほしい。普通の監査官を派遣するより、警戒を持たれなくてよいだろう」
「そうですね。効率的だと思います」
アニエスとドナルドはうなずきあった。
こういうところが気の合うふたりだった。
ドナルドの求婚を断ったのは侯爵家からの「仕事を辞めろ」という圧力のせいだが、仕事を辞めなくてよいのなら家でも延々仕事の話をしていそうな自分たちが想像でき、そんな夫婦生活で果たしていいのだろうかと疑問に思ったせいもあった。
「誰か引き抜いて行っても構わないぞ」
ドナルドにそう言われてアニエスはジル・パエリメを思い浮かべた。
「その方も異動扱いにしていただけるのですか?」
「ああ、いいだろう」
アニエスは領地経営に口を出すつもりでいるのだけれど、まだフィリップの意向を確かめていない。嫁入りに男性文官を伴うのは、アニエスでもちょっとおかしいとわかる。ジルは家令でもいいと言っていたけれど、先代からの使用人がいる可能性もある。
「嫁いでから状況を見てでもよろしいでしょうか」
「もちろん。本人には君から伝えておいてくれ」
ドナルドはアニエスが引き抜きたい相手が誰かわかっている様子だ。ジルが筆頭補佐官を引き継がないのは、ドナルドとジルの間で事前の話し合いがあったからかもしれない。
アニエスは「わかりました」とうなずいた。
「それにしても、『執務室の妖精』がいなくなるなんてな」
テーブルの書類をまとめるアニエスに、ドナルドがため息をつく。
「その呼び方はやめてください」
「マネジットが通ったあとに面倒な調べものが終わっているのを誰かが『妖精が手伝ってくれた』と言ったのが始まりだったか?」
「いいえ。見た目のせいでしょう?」
後ろでひっつめている髪はピンクブロンド。小柄で童顔のアニエスは二十七になった今でも二十歳前後に見られることが多い。『見た目は妖精、中身は女家庭教師』と揶揄される。
文官なんてやっていなければいくらでも嫁ぎ先はあったのに、と言われるのが何よりも嫌いだ。
アニエスが冷たく睨むとドナルドは肩をすくめた。
「容姿はともかくその表情は妖精じゃないな」
アニエスは、妖精は妖精でも『笑わない妖精』『氷の妖精』だそうだ。
実にくだらない。
そう思うとより一層視線が冷たくなる。――その氷の視線を向けられたいという文官が何人もいることをアニエスが知らないのは幸運だった。