ジルとアニエスの出会い
※第一章より前の話です。
王太子補佐官ジル・パエリメは、貴族の隠し子だ。
しかし、父親が誰かジルは知らない。
両親の間でそういう取り決めになっているらしい。
貴族の若者がお忍びで出かけ、知り合った街娘と恋仲になり、結婚できないのがわかっていながら関係を持った。そうして生まれた子どもがジルだった。
ごく幼いころは父親に憤慨していたものだけれど、成長するにつれて母親が子どもをねだったとわかり、世間知らずのお坊ちゃまが悪い女にたぶらかされたのだな、と父親に同情するようになった。
実際、父親はかなり善人だと思う。
認知はされていないものの、生活費や養育費はきちんと毎月代理人の弁護士から届けられ、ジルが上の学校に進める頭脳があるとわかってからは弁護士事務所で勉強を見てもらえるように取り計らってくれ、学費も出してくれた。
誰かもわからない父親より弁護士のほうが『身近で頼りになる大人の男』として尊敬していたけれど、学院に入学したときに弁護士を目指さずに文官を目指したのは、やはり父親が誰か知りたかったからだ。王宮に就職できれば貴族と関わる機会ができると思ったのだ。
優秀な成績で学院を卒業したジルは希望通り王宮の文官になった。けれど、父親だと名乗り出る人はいなかったし、用件もなく声をかけてくる貴族もいなかった。
ジルはがっかりした。
それでもまだそのときは、ジルがもっと有用な地位につけば――自慢できるような息子になれば、もしかしたら父親が現れるかもしれないと期待できた。
それを目標に、ジルは早々に王太子補佐官に出世した。しかし、父親は名乗り出ないままだった。
弁護士に「父に会いたい」と言ったことは子どものころから何度もあるが、そのたび断られていた。
女にたぶらかされた結果の子どもであるジルは父親にとっては汚点だろう。いくらジルが出世したところで会いたくなんてないのだろうな、とジルはあきらめた。金銭的な援助をしてくれていただけで御の字だ。
そうするとなんだか仕事にも張り合いがなくなってしまった。
ほとんど惰性で目の前の作業をこなす日々。
母親の生活は父親が保証しているため、ジルは実家を顧みる必要もない。母親がジルを育てていたのは生活費支給の条件だからで、ジルに時間を割くのは必要最低限で昔から好き勝手に生きていた。
父親と会えたら、母親の面倒はこれからは自分が見ると伝えるつもりだったけれど、今はそんな気分にもならない。悪い女にひっかかった父親の自業自得だ、とまで思えてくる。
(遅れてきた反抗期かよ)
ジルは自嘲した。
いっそどこか遠くで別の仕事にでも就くかと考え、それも面倒だと思い直し、また無難に毎日をすごす。
――そうして二年ほど経ったころ、王太子補佐官に異動してきたのがアニエス・マネジットだった。
学院の在学期間が一年だけ被っていたから、入学試験からずっと主席を守り続けた女子学生の存在はジルも知っていた。
それに、収支報告書の規格統一は王妃補佐官だったアニエスが発案したことも知っている。
初めてきちんと見たアニエスは、どこにでもいる令嬢――平均よりは可憐な容姿だが――だった。
(ひっつめ髪や地味な服より、着飾ったほうが似合いそうだけどな。普通の伯爵令嬢でも十分やっていけるだろうに、なんでまた文官なんかやってるんだろうか)
「アニエス・マネジットと申します。若輩者ですがどうぞよろしくお願いいたします」
王太子に紹介されて挨拶したアニエスは、硬い表情で室内を見回した。
こちらもこちらで、それぞれ立ち上がって礼をしたものの、歓迎とは言い難い雰囲気が漂う。
王太子補佐官は、ジルも含めて平民や中下位貴族の出身者がほとんど。王太子の年齢に近い者を集めたのか、一番年上でも三十代半ばという、若手の男ばかりだった。
皆、身分に頼らず、学院を優秀な成績で卒業し文官として実績を積んできた矜持があった。
卒業後すぐに王妃補佐官なんて良い役職に就けたのはアニエスが王妃と同じ女だからだろう、と侮っていたのだ。
「まあ、仲良くやってくれ」
明るい口調で王太子がまとめた。
(相変わらず適当だな)
ジルは内心不敬なことを考える。それが伝わったわけではないだろうが、王太子は「パエリメ、一通り教えてやってくれ」とジルに振った。
彼女は確かに優秀で、ジルが仕事内容を教えるとすぐに理解してくれた。質問も的確だ。
アニエスの無表情が緊張ではなく通常だとわかるまでには時間がかからなかった。
(そういえば、『氷の妖精』だとか『笑わない妖精』だとか、薔薇宮のメイドの間で呼ばれているんだったか)
手慣らしに、ジルはアニエスにとある式典の来年度予算の確認を頼んだ。
翌日。
進捗を尋ねようとすると、アニエスの机にはファイルが山になっていた。
「マネジット嬢。他の仕事も頼まれたんですか?」
「いいえ。昨日パエリメ様から頼まれた案件だけです」
首を振るアニエスに、ジルは机の上を指さす。
「じゃあ、その資料は一体……?」
「ああ、これですか。気になることがあって調べ始めたら止まらなくて。余計なことでしたら勤務時間外に行います」
「内容によりますけど……」
ジルが説明を促すと、アニエスは関係部署から上がってきた予算案の書類を広げる。
「この会場費ですが、高くありませんか?」
「うーん、毎年こんなものだった気がしますが……」
「ええ。確認しました。王太子執務室で受け持つようになってから五年、金額は変わっていません」
ただ、とアニエスは続ける。
「私の姉が結婚した際、この会場で披露宴を行ったんです。同じ小広間を借りたのですが、ずいぶんと金額が違います。姉のときはこの五分の一以下でした。国の式典での利用と民間利用で金額が変わるとしても、差がありすぎると思いません?」
アニエスの立板に水のような台詞に戸惑いながら、ジルはうなずく。
「まあ、そうですね。確かに……」
「それで内訳や詳細を調べましたが、金額以外に気になる点はありませんでした」
とアニエスは小さな山を示す。
「さらに王太子執務室の担当になる前はどうだったのか確認しようと思って、こちらを資料室から借りてきたところです」
今度は大きな山を示した。
「なるほど……」
いつもの仕事とは違う作業に興味がわいたジルはファイルを数冊手に取る。
「僕も手伝いますよ」
「まあ、ありがとうございます!」
アニエスは両手を合わせて、綺麗に笑った。今までの無表情が嘘のようだ。
(社交用の笑顔だな)
ジルはそう察したけれど、ジルの後ろでこちらを伺っていた同僚たちはころっと落ちた。
「私も手伝います!」
「俺、じゃなくて、私も手伝わせてください!」
がたんと椅子を鳴らして立ち上がる同僚たちに、アニエスはやはり社交用の笑顔を向け、遠慮なくてきぱきとファイルを割り振った。
「ありがとうございます! では、ヤグール様はこちら、キットン様はこちらをお願いしますね」
アニエスは、舐められないように頑なになってひとりで仕事を抱え込むタイプではないらしい。同僚としては悪くない、とジルは評価する。逆に指示し慣れているのは、さすが貴族と言ったところか。
(それにしても、先輩に対してこの人遣い……)
けれど、頼まれた側は快く引き受けている。しかも、「名前覚えてくれているんですね」と感動までしている。
同僚たちの変わり身の早さに苦笑しつつ、ジルも渡された分を見ていく。すると、
「あ、これ。七年前に今の会場に変わっていますね」
「金額は最初から同じですね。誰も高いと思わなかったのかしら……」
「会場の費用の相場なんて普通は知りませんよ」
手伝っていた同僚の一人が笑い半分に言うと、アニエスは彼に冷たい視線を向ける。
「知らなかったら予算の妥当性を判断できないではないですか」
正論である。同僚は笑いを引っ込めた。
アニエスは該当の年とその前年を並べる。
「この年から式典の規模を縮小したんですね。だから前年度より狭い会場に変えた、と。その結果、会場費も減っていますけど……」
「マネジット嬢は、本当ならもっと費用は抑えられたはず、とおっしゃるのですね」
ジルがそう指摘するとアニエスは首肯した。
「ええ。会場が出してきた見積もりも同じ金額ですから、考えられるのは、会場がぼったくっているか」
ぼったくり、と令嬢らしからぬ単語にジルは吹き出しかけ、慌てて表情を取り繕う。
「式典の担当者が会場と結託して不正を行っているか、ですね」
「不正、ですか……」
文官になってから今まで不正なんて聞いたこともない。同僚たちも戸惑い顔だ。
「皆さんは不正なんて考えたこともないでしょうけれど、世の中にはそういった行為に手を染めてしまう人がいるのですよ」
「実体験ですか?」
にやっと笑って尋ねると、アニエスは驚くことを言う。
「もちろん私は不正なんてしませんけれど、実体験というなら、学院のころにカンニングを摘発したことがあります」
「え、摘発!? したんですか?」
「しましたよ。見つけたら摘発するでしょう?」
これまた正論だ。
「でも、実際に見つけることなんて滅多にないですよ」
「そうですか? 私は二度発見しましたよ」
アニエスは首をかしげた。
(学院の試験なんて、自分のことでいっぱいいっぱいだから、他人がどうしてるかなんて気にしないもんなぁ。マネジット嬢は余裕があったってことか)
こちらの驚きなどお構いなしに、アニエスは書類を指さす。
「話を戻しますけれど、この会場費です。普段の費用を知りたいので、調査だと隠して見積もりを取ってみたいですね」
「それなら、僕の知人に頼んでみますよ。第三者からの見積もり依頼のほうが怪しまれないと思いますよ。サプライズパーティの企画をでっち上げて、知人のほうからも漏れないようにします」
「まあ、助かります!」
ジルは突然の非日常感に、不謹慎にもワクワクしてしまう。
(そういえば子どものころ、探偵小説が好きだったな)
「ただ、本当に不正なら監査官の担当になるので、こちらで何かする前に宰相閣下に根回ししておいたほうがいいと思います」
「確かに! ご指摘ありがとうございます。パエリメ様のおっしゃる通りですね。すぐに宰相閣下へ面会依頼を出します。あ、ヤグール様とキットン様はまだお時間あります? それでしたら、この二年分の予算を書き写していただいてもよろしいでしょうか?」
「もちろんです!」
アニエスのお願いを、同僚たちは二つ返事で引き受けている。王太子からの指示でもこんなに張り切らないのに、と呆れる。しかしジルは、自分もアニエスに感謝されるのがなんとなく気分がいいことに気づいていた。
久しぶりにやる気が出る。
「僕のことは呼び捨てで構いませんよ」
ふと思いついて、ジルはアニエスにそう言った。
「呼び捨てはさすがに無理ですけれど、お言葉に甘えて、パエリメさんと呼ばせていただきますね。私のことも呼び捨てでどうぞ。貴族扱いは不要ですよ」
「あーじゃあ、アニエスさんって呼んでも?」
思い切って言ってみると、アニエスは、
「ええ、どうぞ。ジルさん」
笑わないけれど、意外と気さくだった。
結局、式典の会場費は、会場側と担当文官が共謀した不正だった。
アニエスは王太子補佐官になって半年で二件の不正を見つけた。
「今までの王太子補佐官たちの目は節穴だな」
という宰相の嫌味に、
「あら、それを言うなら監査官の方々も同じですわね」
とアニエスが返して、ふたりの間に雪嵐が見えたとか。
小説に出てくる名探偵のような突飛な思考による推理ではなく、アニエスは注意力や調査力によってそれを成し遂げていた。
(通常業務の中で発見して解決してしまうんだから、おもしろいんだよなぁ)
不正の摘発じゃなくても、普段の仕事の中から改善点や新しい案件を見つけてくるから、停滞がない。
惰性で続けていた仕事だったが、ジルは毎日楽しく出勤するようになっていた。
仕事をするなら、アニエスと一緒がいい。
半年も経たずに、ジルはそう考えるようになったのだった。




