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奥様はエリート文官【ネトコン12入賞・コミカライズ予定】  作者: 神田柊子
第三章 「旦那様は……?」「辺境騎士団長!」

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腕の中

 アニエスが学院の最終学年のとき、二学年下に南の隣国アレグロ王国からの留学生がいた。

 彼女は、アレグロ王国の公爵令嬢で、自国の王太子の婚約者に内定していた。

 それが嫌だったらしく、彼女は留学中に自分の護衛騎士と駆け落ちを企てた。しかし、土壇場で気が変わり、駆け落ち相手からも逃げた。

 そこに偶然通りかかったのがアニエスだった。

 アニエスは全く関わりがなかったため知らなかったが、公爵令嬢とアニエスの髪色が似ていたらしい。アニエスの方が小柄なのだけれど、遠目にはわからなかった。

 午後に提出する課題を忘れたアニエスは、昼食を素早く取って女子寮に戻ろうとしていた。その途中、後ろから腕をつまかれて、建物の陰に引き込まれた。

「きゃっ! んぐ」

「シルヴェーヌ様、お静かに!」

 口を押えられて、耳元で男の声がする。

(シルヴェーヌ? 誰?)

 アニエスはそう思ったが、何度かうなずいておいた。そうすると口が解放される。

「どうして待ち合わせ場所にいらっしゃらなかったのですか? 私は朝からずっとお待ちしていたのに」

(それを私に言われても……。そんなに大事な相手ならどうして人違いをするの?)

 後から聞いたことだが、公爵令嬢と護衛騎士は特に親しいわけではなく、彼は令嬢の背後から守っていることがほとんどだったそうだ。逃げたい令嬢に都合よく利用されたのだろう。

 そのときのアニエスは何もわからず、人違いだと言って大丈夫なのか不安になった。

 しかし、黙っているのはもっと良くない気がした。

「あ、あのですね、大変申し訳ございませんが、私はシルヴェーヌ様ではございません」

 アニエスがそう申告すると、背後の男はぐるりとアニエスの身体を回した。アニエスはそこで初めて男と向き合った。

 よく街を歩いている平民のような、シャツとベストとズボン。ただ、腰には場違いなほど立派な剣を差している。

 男はアニエスの両肩をつかむと、がくがくと揺さぶった。

「シルヴェーヌ様はどこだ? お前がどこかにやったのか?」

「は? なぜ私が?」

(そもそもシルヴェーヌって誰なのよ?)

「私はあの方をお守りすると決めたのだ。王太子殿下とは結婚したくないとおっしゃっていたのに! お前がシルヴェーヌ様をどうにかしたんだろう? なり替わろうとしたって無駄だ! 私は騙されないぞ!」

 そちらが勝手に間違えたくせに何を言っているのか、という文句はアニエスの口からは出てこなかった。

 男に突き飛ばされてふらついたアニエスは、背後の壁にぶつかったのだ。

 地面に倒れる寸前で、アニエスは誰かに助けられた。

「大丈夫ですか?」

 そう聞かれたときにはアニエスの意識は落ちかけていた。

 ぼんやりとした視界の中で、黒っぽい人影がアニエスを覗き込んでいる。

 遠くで「シルヴェーヌ様はどちらだ!」と叫んでいる男の声が聞こえていた。


 ふわりと意識が浮上した。

(ん? 夢?)

 夢の中で意識を失ったら、現実で目が覚めるなんて、少しおもしろい。

 アニエスはそんなことを考えながら、夢の出来事を思う。

 あれは実際に学生時代にあった話だ。

 シルヴェーヌが計画し、駆け落ち相手も彼女が自国から連れてきた護衛騎士。国際問題にはならなかったらしい。

 アニエスは当事者なので状況説明を受けたが、固く口止めされている。対外的には、貧血を起こして倒れたアニエスをたまたま通りかかった騎士が助けてくれたことになっていた。

 シルヴェーヌは事件のあとすぐに帰国し、王太子の婚約者を辞退した。彼女が今どうしているのかアニエスは知らないが、アニエスは同盟国の主要人物は夫人も含めて把握しているので、シルヴェーヌは表舞台には出ていないのだと思う。

 シルヴェーヌが辞退したアレグロ王国の王太子の婚約者だが、昨年、このモデラート王国の王女ミュリエルに決まった。

 西岸三国の王家は、もともと一つの一族だったのが分裂して三国に分かれ、三百年前の同盟締結の際にそれぞれ婚姻を結んだ。以降も何度か婚姻が結ばれているため、どの王家がどの国を継いでも血統に問題がないと言われるくらいだ。

 ミュリエルの婚約は、シルヴェーヌが我が国で問題を起こしたことと関連があるのかないのか知らないが、同盟国の王家同士の結婚はよくあることなので誰も疑問に思っていない。

 アニエスを助けてくれた騎士が誰なのか、アニエスは知らなかった。アニエスに状況説明してくれた学長も、それだけは話さなかった。

 アニエスは何も聞かれなかったのに、シルヴェーヌと護衛騎士の所業が明らかになっていたから、シルヴェーヌを監視していた人なのかもしれない。

(婚約が決まったときにコレットとも話したけれど、助けてくれた騎士がフィリップ様っていう可能性だけはないわね……)

 今朝もアニエスの目の前には壁がある。

 アニエスが目を覚ます前にフィリップは起きていて、彼はアニエスを緩く抱き寄せたまま、髪をなでたり弄ったりしていることが多い。アニエスはそのまま寝たふりをして、フィリップの好きにさせている。

 結婚してそろそろ一か月。

 夕食後の予定だった報告会は、いつのまにか寝る前に固定されていた。フィリップは毎晩アニエスの部屋に来て、一日の報告をしあって、ふたりで寝る。

 この状況にも慣れた。

 しかし、アニエスが『長期的な課題』に入れた案件は、まだ回答を出せないまま。

 これでいいのかと心配になるけれど、フィリップは何も言わない。

(いっそのこと、期限を切って急かされた方が答えを出しやすかったりしないかしら?)

 主寝室の内装は整った。あとは注文している家具が仕上がれば、引っ越しできる。

 そのときには答えを出せるだろうか。

 そこでふと考える。

 アニエスが出さなくてはいけない答えは、「フィリップを愛しているか、いないか」ではなく「愛している」一択なのだ。

 答えは決まっている。アニエスがそれにたどり着けるかどうかが問題なのだった。

(親愛や敬愛は抱いているわ)

 抱き寄せられている状態が嫌ではない。

 フィリップがアニエスに恋愛を要求するから話がややこしくなるのだ。

(政略結婚なんだから別にいいじゃない)

 八つ当たりだと思ったけれど、アニエスは少し腹が立った。

 フィリップの腕の中でくるっと寝返りを打つと、「あ、お、起きてたのか?」と焦った声がした。

 それで溜飲が下がって、アニエスはもう一度フィリップの方に向き直って目を開けた。


「恋愛感情を持っているかどうかって、どうやったらわかると思う?」

 午後のお茶の時間。

 アニエスはコレットにそう聞いてみた。

「どうしたの? 何か進展?」

 コレットが身を乗り出したけれど、アニエスは「むしろ停滞?」と手を振る。

「フィリップ様を好きか嫌いかって聞かれたら、好きなのよね。間違いなく」

「そうね」

 そう見えるわ、とコレットもうなずく。

「私は、その好意の内訳に高度な感情を要求されているわけじゃない?」

「まあ、小難しく言えば、そうね? 自分と同じように恋愛感情で好きになってほしいって言われてるってことよね」

 アニエスはため息をつく。

「私だって、恋愛感情を返せるものならそうしたいのよ……。申し訳なくって……」

 アニエスは姉たちから下世話な話をいろいろ聞かされている。アニエスの気持ちを待つと言ったフィリップが一緒に寝たいと言って、アニエスには固辞する理由がないからそうしているのだけれど、苦行を強いていないか気になる。実際に、本人が言っていたとおりに『そんなつもりがある』ように思えるときもあるから余計に困る。

「私はフィリップ様が好きよね? 愛はあるわよね?」

「ええ。そう思うわ」

「恋愛感情かって言われるとよくわからないのよ」

 アニエスは、クレームブリュレの表面にスプーンを入れる。かしゅっと音を立ててカラメルが割れた。もともと勤めてくれていた料理長に加えて新しく雇った料理人はデザートが得意で、毎日用意してくれる。

「おいしい」

 甘いものは心のささくれを癒してくれるのだ。

 コレットもクレームブリュレを堪能しながら、

「『あいはて』だったら、辺境伯オーギュスト様の元婚約者が現れて、ヒロインのカミーユは彼女に嫉妬して、オーギュスト様への愛情に気づくわね」

「嫉妬……」

「旦那様には女の影がないわね……。うーん、マルゴはどうだったの?」

「マルゴに嫉妬?」

「ごめんなさい。それはないわね。ない、ない」

「そうね、ないわね」

 マルゴに腹は立ったけれど、フィリップもアニエスも馬鹿にしている態度に思えたからだ。嫉妬ではない。

「旦那様に元婚約者なんていないのよね? ……そういう話したの?」

「いえ、していない、わね……。マルゴみたいな女に好かれるっていうのは聞いたけれど。そういう話聞いた方がいいのかしら?」

「うーん、どっちでもいいんじゃない? あなたが気になるなら聞けば?」

 アニエスは少し考える。

(フィリップ様の過去……)

 本人が話したいならいくらでも聞くけれど、そうでないなら別に必要ない。

「私から聞くことはないわ」

 アニエスがそう答えると、コレットは「他にロマンス小説の定番だと……」と続ける。

「一緒にどこかに出かけたり?」

「それはいいわね。報告書の規格統一の件で農村を回りたかったのよ!」

「仕事じゃなくて、デートよデート!」

「デート?」

「ほら、お忍びで街を見て回ったり」

「でも、農村はできるだけ早いうちに行かないとならなくて」

 思いついてしまうと、早めに企画しなくてはと焦る。

 今年の収穫期には統一された報告書がほしい。

 手帳を取り出しそうになったアニエスに、コレットが声を上げた。

「両方行けばいいじゃない。お忍び街歩きデートと農村お仕事デート」

「フィリップ様がお忍びって無理がないかしら?」

 アニエスが首をかしげると、コレットも、

「そうよね。どこからどう見ても、旦那様ってわかるわよね」



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