閑話:副官飲み会
離れを出たジルは、前をフィリップの副官アンドレ・ダルリッツァが歩いていることに気づき、声をかけることにした。
「ダルリッツァ卿!」
「アンドレで構わない」
「じゃあ、僕もジルで。今から街に飯食いに行くんですが、一緒にどうですか?」
ジルはジャコブと同様に離れに部屋をもらった。監査が終わったら管理官になるだろうと思っている。
外出が解禁になったため、本邸からの差し入れを断って食事に出ることにした。
「副官同士、仲良くしましょう」
と誘うと、アンドレは乗ってきてくれた。
ペルトボールの領都は、地方都市としてはそれなりだ。国内を東西南北に走る街道は通っていないが、国の東端の三つの辺境伯領を南北に突っ切る道がある。ペルトボールの隣領に南の隣国アレグロ王国への関所があるため、その南北の道が、南のアレグロ王国から北のアンダンテ王国までの近道になるのだ。
過去三年分の収支報告書は、できる範囲でまとめ終わった。アニエスが宣言した通り、ちょうど五日かかった。
盗掘団の討伐もその間に終わっていて、街は平穏に戻りつつある。
「騎士団はまだ忙しいですか?」
ビールを半分ほど飲み干してからジルが聞くと、アンドレはうなずいた。
「そうだな……」
「言えないことは別に言わなくていいですよ」
ジルはアニエスの部下のつもりだが、辺境伯家の一員という自覚はない。
「アンドレさんは、閣下の副官は長いんですか?」
「ああ。団長が小隊を任されたときから、十年か」
「それじゃあ、閣下が奥様を見初めたのもご存じだった?」
「もちろん」
アンドレはビールをぐいっと飲み干す。
鹿肉の煮込みの皿から自分の分をとりわけ、ジルはアンドレの前に滑らす。肉は臭みがなくうまいし、大根のような蕪のような謎の根菜も味が染みている。
(これがもしかして、赤ノースパペット蕪か? それとも赤紫ノースパペット蕪か?)
収支報告書の規格統一政策の発案がアニエスだと、ジルは知っている。
今回、彼女がジャコブを責めないのは、自責の念があるからかもしれない。ジルも似たようなものだ。
ジルは当時はまだ王太子補佐官ではなかったが、大きな政策に関わる者として、もっと広範囲に目を向けないといけないと決意を新たにした。
「閣下はどうして今まで求婚しなかったんですか?」
「奥様は公爵家からの縁談も断るとおっしゃっていたからな。団長がそれを聞いたとき、俺も隣にいた」
「いや、そんなの、求婚してみないとわからないでしょう? それより、求婚前に普通に声かけて知り合ってデートしたりっていうのは、貴族はやっぱりありえないんですか?」
「ありえないわけではないが……」
宰相ドナルド・ブランベリー侯爵の求婚は侯爵家の『仕事を辞めろ』圧力で立ち消えになったが、披露宴を見た限りミナパート公爵家はアニエスが王太子補佐官のままでも受け入れてくれたように思えた。
王太子妃の妊娠より前に、フィリップがアニエスと結婚していたら、アニエスは今でも王太子補佐官のままだったのではないかと思う。――フィリップが辺境伯になったら辞めたかもしれないけれど。
アニエスが去ったあと、メイドや侍女や女性文官などからゴシップ紙の記事と同じような噂が広がり、表向きには『ずっとアニエスを好きだったフィリップが離れ離れになるのが嫌で求婚してペルトボールに連れて行った』という話になっている。
王太子妃エマニュエルはもともと政治に関わる立場ではないが、アニエスの件の事情を知っている文官の心証が悪くなった。亡きグレース王妃は多少政策にも関わっていたが、エマニュエルは王妃になっても難しくなるかもしれない。宰相は国王や王太子、王太子妃の父カラエラ侯爵にも嫌味を言っていたらしいから、それでいくらか溜飲を下げた文官も多い。
アンドレは言葉を選ぶようにして、フィリップはなぜ求婚しなかったのか、というジルの質問に答える。
「団長は、周囲の人間の希望を優先しようとする。文官を続けたい奥様をわずらわせたくなかったのだと思う」
「今はいいと?」
「もう結婚したからじゃないだろうか」
嫌われていない確信があって、ということか。
「確かに、普通に声かけて知り合ってってのを文官時代の奥様にやろうとしたら、難易度が高そうだ」
男嫌いにも見えたから、美人は苦労が多いんだな、とジルは密かに思っていた。
アンドレは残りのビールも飲み干すと、「団長が報われそうで本当に良かった。五年は長かった……」と息を吐いた。
「アンドレさんはずいぶん閣下に思い入れがありそうですけど、なぜですか? 実は乳兄弟だったとか?」
「残念ながら、当時の大隊長の判断で配属されただけの単なる部下だ」
「え、そうなんですか。窮地を救われたとかもない?」
「ない。ないが、悪いか?」
「いえ、別に」
フィリップが離れのアニエスの様子を見に来るたびにアンドレもついてきて、ふたりがいい感じだとそっと拳を握っていたりするから、深い関係があるのかと思ったのだ。
「貴族令嬢や夫人は、団長の体格や顔に恐れをなして失礼な態度ばかりとる。その点奥様は初めから、騎士だから怖い見た目で良いとおっしゃっていた。奥様と結ばれて本当に良かった。結婚が王命だと聞いて、俺は初めて陛下がこの国の王で良かったと思った」
「はあ、そこまで……」
ジルが呆れた顔をすると、アンドレはこちらに向き直った。
「そういうお前はどうなんだ?」
「どう、とは?」
「奥様について辺境まで来るなんて、何かあるんじゃないのか?」
「本人にも伝えましたけれど、奥様の仕事はおもしろいんで」
「それだけ?」
つっこまれてジルは少し考える。
まあ、言っても問題ないだろうと判断した。
「同じ給料もらうなら、怖い顔のおっさんより綺麗な女性の下で働くほうがいいでしょ? 褒められるにしても怒られるにしても」
「そうか?」
「いや、ほら。アンドレさんだって褒められるなら、第三騎士団長よりも辺境伯閣下の方がいいでしょ?」
「なるほど。理解した」
この人もおもしろいな、とキャベツの酢漬けをつまみながらジルは思う。
「お前はともかく、ジャコブは大丈夫か? 奥様に傾倒しかけているように見えるが」
「ああ」
処罰されるかと思ったら労われて共感され、仕事を始めてみたら速さに圧倒され、ジャコブはアニエスを憧れの目で見ている。
「あんなのは王城の文官にいくらでもいましたよ」
ジルは軽く首を振ると、
「貴族の間では奥様は『身分も見た目も手ごろ』だったかもしれないですけど、実力主義の文官の間では『姫君級の高嶺の花』ですからね。恐れ多くて、仕事以外の話なんてできないでしょ」
そのうち睨まれたいとか言い出すかもしれないけれど、それは言わないでおこうと思うジルだった。




