アニエスと家政婦長
アニエスはいつもより少しだけ遅い時間に目が覚めた。
あちこちの領地に泊まりながらゆっくり来たので、ペルトボール辺境伯領まで五日かかった。昨日の夕方に着いたばかりだ。
先ぶれは出していたのだけれど、出迎えの中にフィリップの姿はなかった。
「北側の村から盗賊被害の連絡があり、昨日から出動しております。急ぎ知らせを送ったので、明日の朝までには戻られると思います」
アンドレ・ダルリッツァと名乗った副官がそう説明してくれた。ダルリッツァ男爵の三男だという彼は三十前後に見える。神経質そうな難しい表情をしていた。
「領主が出ないとならないほどの被害なの?」
「そのような訴えがあったのですが……」
アンドレは眉を寄せた。間違いがあったのだろう。アニエスは、
「明日、フィリップ様とお話しできるように調整をお願いします」
「承知いたしました」
アンドレは敬礼をして一歩下がる。
そうすると、玄関ホールの正面には三十代半ばの女性が立っているのがわかった。横に避けた位置に執事と思わしき老齢の男性が立ち、ホールの端には若いメイドが三人いた。
「正面を陣取る、と……」
アニエスの後ろでコレットが小さくつぶやく。
「私がアニエスです。ペルトボール辺境伯に嫁いできました。今日からよろしくお願いするわね」
アニエスはぐるりと全員の顔を見回し、そう挨拶した。
皆、それぞれ頭を下げたが、正面の女性はすぐに顔を上げると、アニエスを上から下までじろじろと眺めてから「ふっ」と軽く息を吐いた。……なんだか面倒そうだ。
「あなたが家政婦長?」
アニエスはそう尋ね、もったいぶりながら口を開こうとした相手を止めて、
「挨拶は明日改めてにしましょう。状況確認も兼ねてひとりひとり面談の機会を設けるつもりです。とりあえず、今日はもう疲れたから休みたいわ。食事不要の連絡はいっているわよね? 部屋はもちろん整っているのでしょう? 屋敷が無理なら騎士団寮に泊まるから、整っていないなら整っていないで構わないわ。――それから、あなたが執事ね? 荷物を運び込む指示を出していただけるかしら?」
「かしこまりました」
執事は礼をすると庭に出て行った。
家政婦長は口をぽかんと開けている。
「部屋は整っているのかしら?」
アニエスがもう一度聞くと、彼女はふるふると震え「奥様をご案内しなさい!」とメイドに指示した。
「私は忙しいので失礼させていただきますわ」
そのままくるりと背を向けて行ってしまう。
「うわぁ……」
コレットの感嘆が完全におもしろがっている声音だ。
何をどうしたらあんなに失礼な使用人ができあがるのだろう。
前辺境伯はどういう人だったのか、今さら気になった。
家政婦長に命令されたメイドがおずおずと近づいてきて「奥様、ご案内いたします」と声をかける。
笑わない、冷たそう、と散々評されてきた自覚があるアニエスは、社交用の笑顔で「よろしくね」とメイドに愛想をふりまいておいた。
部屋はきちんと掃除されていた。調度やカーテンが古いのは仕方ない。あの家政婦長ならと心配したが、シーツは新しかった。
疲れていたのもあり、アニエスはぐっすり眠った。
そして、翌朝。
支度に来てくれたのはセシルとコレットだった。
「おはよう」
「おはようございます」
「おはよう。ふたりは大丈夫だった? 寝るところはあった?」
アニエスが聞くと、ふたりとも笑顔を浮かべる。
「心配しないで。家政婦長以外は皆まともだったから」
「料理人もいましたよ」
「ああ、そうなのね。それなら良かったわ」
旅の間に着ていた簡素なワンピースを用意したセシルが、
「まだ荷物を開けていないので、こちらですみません」
「いえ、構わないわ。普段着は全部こんな感じよ。公爵家ではお願いしていたけれど、朝の支度もひとりでできるのよね」
「部屋割りを確定させてから荷解きをしたほうがいいのではないかと、執事のナタンさんがおっしゃっていました」
「そうね。部屋割りね……。やることがいっぱいだわ!」
アニエスは差し迫る仕事量に胸を高鳴らせながら、食堂に向かう。
その道中、家政婦長と行き会った。
「おはようございます」
「おはよう」
一応、挨拶はしてくるのね、とアニエスは感心する。
「よくお休みいただけましたか?」
「ええ、快適でした。ありがとう。ええと」
「マルゴ・ギャドリックと申しますわ」
「ありがとう、マルゴ。フィリップ様はお戻りになったか知っている?」
「もちろんですわ。旦那様は昨夜のうちに戻られました。それなのに、奥様はぐっすりお休みになられた、と」
ふふふ、と笑うマルゴに、コレットがアニエスの横に出る。
「長旅を終えた妻を気遣ってくださるなんて、素敵な旦那様ですわね。さすがですわ」
アニエスだけなら「それに何の関係が?」と返すところだった。
「旦那様が朝食を騎士団寮で取られるのも、奥様を気遣ってのことなのでしょうねぇ」
マルゴは胸を反らせた。
高笑いでも出てきそうな雰囲気にアニエスは内心呆れるが、ふと彼女の豊満な胸元に目が行った。大きなブローチが飾られている。
「あら? そのブローチは……」
アニエスが指摘すると、マルゴは、
「素敵なブローチでしょう? 旦那様からいただきましたの」
「まあ、あなた結婚していたのね」
しれっと見当違いなことを言うと、マルゴは眉を吊り上げた。
「旦那様とは辺境伯様のことです!」
「前辺境伯ギヨーム様?」
「フィリップ様のことです!」
マルゴの言葉に、アニエスは目をすがめると、
「あなた、何を言っているの? そんなわけないじゃない」
「奥様は来たばかりでご存じないでしょうけれど、フィリップ様は」
「あなたは知らないでしょうけれど、そのブローチの宝石はホワイトミントオパールだと思うわ。四百年ほど前はたくさん産出されたのだけれど、戦争中に宝飾品以外の用途に使われて掘りつくされて、今は全く出回っていないの。用途が用途だっただけに、所持している人や家は王城で記録管理されているのよ。フィリップ様はお持ちではないわ」
マルゴを遮ってアニエスがまくしたてると、マルゴは自分の胸のブローチをまじまじと見つめた。
「これは、高価なのですか?」
「知らなかったの?」
アニエスは質問に質問を返したが、マルゴは肯定ととったようだった。
「私、忙しいので失礼させていただきますわ」
昨夜と同じことを言って、踵を返した。
マルゴが完全に去ってから、コレットがアニエスを振り返った。顔が笑っている。
「なに、ホワイトミントオパールって」
「嘘に決まってるでしょ?」
「それはわかってるわよ。フィリップ様からもらったって嘘を封じるために嘘で返したってこと?」
「私、あれと同じ色のコモンオパールを見たとき、パティスリー・キューリックのホワイトミントチョコレートみたいな色だって思ったのよ」
「あれと同じ色?」
マネジット伯爵領の職人組合で見せてもらった依頼人が消えてしまったオパールだ。ほんのり緑を帯びた白いミルキーオパール。あれよりもマルゴのほうが大きい。ぱっと見た感じでは、枠のデザインが今流行りのカメオブローチに似ているから、古いものではないと思う。
マルゴはあれをどこから手に入れたのだろうか。
マネジット伯爵領のオパールの話をすると、セシルが表情を変えた。
「私、家政婦長を見張ります」
「あなたが危なくならないのならそうしてもらいたいけれど、大丈夫? このあとフィリップ様に相談に行くつもりだからそのあとでも」
「いえ、今から。皆は私のことただのメイドだと思っていますので」
「そう、それじゃ、適当なタイミングで一度戻ってきて」
「承知いたしました!」
セシルは身をひるがえすと音もなく走って行った。
ため息が聞こえて顔を向けると、コレットが首を振る。
「アニエスの辺境には恋愛じゃなくて、雑務と謎が待ち構えているってわけね……」




