プロローグ
初夜である。
アニエスは緊張しながら、部屋に入った。
ここまで案内してくれたメイドが外からそっと扉を閉めて、アニエスは取り残される。
室内に夫になったばかりのフィリップは見当たらず、アニエスは正直ほっとした。
フィリップは辺境の領地から離れられなかったため、王都での結婚式はアニエスとフィリップの実家ミナパート公爵家が準備した。
婚約してからアニエスがフィリップと顔を合わせたのは、結婚式当日、教会の祭壇の前が初めてだった。婚約前なら、夜会で遠目に見かけたことがある程度だ。
結婚式のあとのパーティーでも挨拶回りに忙しく、ふたりで話す時間はまだ取れていない。
アニエスには突然の結婚話だったけれど、フィリップにとってもそうだろう。ミナパート公爵家でアニエスは大歓迎されたけれど、フィリップはどうなのだろうか。
結婚式もパーティーの間も彼は紳士的に接してくれていた。――いうなら他人行儀。でも、初対面なのだから仕方ないし、アニエスだってどう接していいのかわからないでいる。
部屋のソファセットには飲み物が置かれており、果実水と軽いお酒のようだ。飲みながら話をして、少しでも打ち解けられたらいいのだけれど。
緊張をほぐすために息をついて、アニエスは再び部屋を見渡し、下ろされたベッドの天蓋の向こうに影があるのに気づいた。
フィリップ以外の人がこの場にいるはずがないので、彼だとは思うけれど。
(気づかなかった。いるなら、私が入室したときに何か言ってくれたらよかったのに)
そう思いながらベッドに近づき、アニエスは小声で声をかけた。
「フィリップ様……?」
返事はない。
アニエスがそっと天蓋を開けると、大きなベッドの真ん中に大きな男が大の字になって寝ている。
やはりフィリップだった。
元第三騎士団の副団長だった彼は背が高いし、肩や胴回りもがっしりしており、筋肉がついていて厚みがある。バスローブがはだけて上半身は裸状態なのだけれど、性差を差し引いても自分の身体とは違いすぎる。別の生き物か彫像のようで男性の裸だという現実感が湧かない。
小柄なアニエスは彼の肘くらいまでしか背が届かなかった。寝ている彼の二の腕は、アニエスの太ももより太い。
「フィリップ様?」
再度呼びかけてみたが、寝息を立てて寝ているフィリップは起きる気配がない。
「辺境伯といえば……『君を愛することはない』……」
婚約が決まったときに友人のコレットと、大人気恋愛小説の一場面をネタに笑いあっていたことを思い出す。
あの小説では辺境伯が初夜の場でヒロインに『君を愛することはない』と冷たく宣言して、寝室を出て行ってしまうのだけれど。
アニエスは苦笑しながら、熟睡するフィリップを見る。
二十七歳のアニエスより六つ年上の三十三歳。ミナパート公爵家の次男で、二か月前にペルトボール辺境伯位についた。辺境を離れられなかった彼は、結婚式のために今朝王都に着いたらしい。野営しながら騎馬で飛ばして来たと聞いた。
(それはお疲れよね)
初夜を先延ばしにできるのならアニエスもありがたい。
こちらも朝から身支度、その後の慣れない社交で非常に疲れた。
アニエスはフィリップの隣に寝転がる。彼が伸ばした腕の下にアニエスはちょこんとおさまったので、問題はない。彼にも布団をかけてあげた。
「はぁぁ……疲れた……」
ひとつあくびをすると、アニエスはあっさり眠りの世界に旅立ったのだった。