1話 この世界について、俺たちはまだ知らない
これまでのより結構長いです。
森に迷って一時間。
すぐに森から出れると思って何も考えずに歩いていた二人には焦燥感が迫っていた。いつになればこの景色から抜け出せるのかと不安な気持ちになり、それが体にも出てくる。
普段よりも早足になる妙子。キョロキョロと周りを過剰に見渡す太郎。
この二人のペースは時間と共にズレ始めた。
「ちょっと、早い!」
そう言ったのは女性になった太郎だった。
その言葉に、妙子は太郎との距離が離れている事に気付いた。
妙子は太郎の元に駆け寄ると、太郎の息が上がっていた。
互いに性別が変わった事で、普段とは疲労の感じ方も、歩幅の距離も違っていた事にこの時、二人は認識した。
「ごめんなさい、気付かなかくて。一回休む?」
妙子は太郎の手を取る。見た目が女である事で、不思議と触れるのに抵抗を感じなかった。本当に男なら、もしかしたら近付く事すら出来なかった様に思うのに。
しかし、太郎は首を横に振った。
「いや、大丈夫。お前が歩くの早かっただけの話だし」
些か、男としての意地、みたいなものを張っている太郎であったが、妙子は少し訝しんで、ため息をつく。
手を取った妙子の手を振り払うと、太郎は前進しようとするが、妙子はそんな太郎の肩を掴み、そのまま付近の岩に座らせた。
「ちょっと休憩しましょ。考えてみたら私も疲れたし」
明らかに気を遣われている。そう太郎は思ったが、その気遣いを無下にするのも悪いので、それに同意した。
妙子はこの森の攻略を考えなくてはならないと思った。こんな時、どうすれば街に行けるのだろう。
過去に見た番組では、森に迷った人は、大量の時間を費やし、同じ場所を一周してしまう現象が起こるという。なんでも人は真っ直ぐに歩いていると思っても、若干のズレが出来るらしい。
目隠しをして、真っ直ぐ歩くと、直線からだいぶ離れた位置に立っているのと同じ現象だ。
だから、目印が欲しかったのだが……。
手持ちにあるのはメガネと電池残量少ないスマホくらい。
メガネのツルを折って簡易な針にして目印にしようとも思ったが、多分あまり大きな目印には出来ないし、先にツルが参ってしまうだろう。
「ねぇ、なんかいい方法ない?この迷子からの脱出」
妙子はモヤモヤした気持ちの状態で、隣に座る太郎に聞いてみた。
「川を探すってのはどうなん?ほら、川見つければ解決出来そうじゃん?さっきあった泉に川あったよな?」
彼が考え付いたのは、ありふれた答えだった。
「あー、確かに。でも、多分あれは使えないわよ」
「えっ?なんで?」
それはね、と妙子は少々長い説明をしようと、そこらへんの木の枝を折って、地面に絵を描く。
「川って山頂から底に向かって行くものよね?多分アンタはそれを降れば山からは抜けられると思ってる。それに、川は水の資源。人の生命線だから大事。だからその近くに街がある可能性もある。そうよね?」
「うん」
覗き込む様に太郎は妙子の描いた絵を見る。だいたい頭に浮かんだ流れを描いている。
「でもね、そこにはいくつかの障害があるの」
「?あるの?」
太郎は頭を捻る。一見問題は無いように思うのだが、と理由を考えて見る。
……生命線……。
「あっ!」
と、太郎は閃いた様に声を出した。
「野生の動物に遭遇しちゃうのか!」
「あ、そうか」
「え?」
太郎の閃きに対して、説明していた妙子が何故か納得してしまった。
「……そうかって、ん?何?」
「?ほら、ここ異世界だから熊より厄介な水棲魔物が出る可能性あったわけじゃん?いやぁ、気付かなかったわ。さすがなろうを沢山読んでるって自称するだけあるわね」
「ま……、まねー!!」
偶然である。
「でも他の理由は分からないや。なんなんだよ?」
「まずね、山や森の川っていうのは、変わりやすいのよ。いきなり雨降って増水したりしてね。もしそれに巻き込まれて全身濡れたら詰みだわ」
「あっ。……あー」
「後ね。大概川って言うのには滝があったりするものよ。その時のガッカリ感は凄いわよ?精神的にも肉体的にも一気に来るわ」
「ゲームみたいに崖を降りるって言うのは……無理ですよね」
太郎自身が身に染みて分かっている。
悲しいかな。女になって喜んでいた自分が恨めしい。
いや、男の姿でも降りれる自信は全く無いが。
「じゃぁ、どうするんだよ?」
「川って事なら、むしろ川を上る!」
「竜に転成するってこと?」
「その発想はなかった」
妙子は絵を更に描く。
「川の頂上付近っていうのは水が澄んでいるって昔調べたことがあるのよ。そこなら綺麗にろ過された水が汲めるはず。運が良ければ、座標も見つけられるもの」
つまりは、生命線である水の安全な確保が第一として、目的座標を見つけるのが第二の理由となるわけだ。
「ついでに、山頂であるならば、人が作った道が見つかるかもしれないし」
「あっー!なるほど!あったまいいなぁ!」
太郎は思わず口にした。先ほどまで疲れていた顔が一変、朱色に染まり、笑顔となった。
「ふふん。そうでしょー。もっと褒めていいわよ」
「よっ!知識無双系なろう主人公!」
「……絶妙に褒められて無い気がするわね」
少し、微妙な気持ちにはなったが、説明を続けた。
「それで、さっきの泉だけど、残念ながらあれが一番上にあったから、これ以上上がれないのよね」
「あー。じゃぁどうするん?」
「それよー。私、ある程度の知識はあるけどそれだけなのよね」
全て調べ物知識で、実体験がない。
なので、この様な机上の空論を言っても、効果的かと問われると無いと思える。
なによりここはネットの情報とは違う埒外の世界なのだ。周りのきのみが果たして食えるかどうかも分かったものではない。
少なくとも、この日の内にはここから脱出したい。
遭難の対処方法の内、自身らが取れる行為が限られている。
火の起こし方なんて出来ないし、紙がないから材料も集めなきゃ行けない。
簡易なベットも作れない。確か、枯れた葉っぱをかき集めるところまでは覚えているのだが、その後はどうするのだったか忘れてしまった。
食料に関してはもはや致命的。日本のきのみならばまだしも、ここは異世界。何も分からない。
というか、自分たちが、この世界の人たちが食べているものを食える保証すらないのだから。他所の国からやって来た食材によって病原菌が大量発生した事例などが我々の世界にもあるのに、異世界でそうならない方がむしろ幸運だ。
妙子はその辺がキレるせいで、太郎に比べてモチベが下がっていく。
「どったん?」
太郎が聞いてきた。
(いやー、しかし本当に可愛い顔してるなー。学校にいたらマドンナじゃん。お目目もぱっちりしているの、本当に羨ましい)
みたいな事を思いながら、妙子は首を振った。
「なんでもないわ。あともう一個ほど解決の糸口があればいいのにね」
「……うーん。あ」
ふと、となりの太郎は思いついた様子で声を出した。
「やっぱりさっきの泉に戻ろうぜ」
「?なんで?」
「歩きながら説明するわ。この辺見覚えあるし、泉まですぐにつけるから」
「そう……」
見覚えあるって何気に凄くね……?と妙子は思いながら、太郎の後をついて行く。
「俺の持ってるスマホが役に立つかもしれん」
「?なんで?」
「ほら、これ。俺のスマホ」
そう言って見せたのは、青い色をした手帳型ケースのついたスマホだった。
「?これがどうしたのよ?ここ異世界だから電話とか通じないわよ?」
「そうじゃなくて、ほら、この手帳型ケースだよ」
太郎はそのケースの蓋を閉める部分を弄る。小さな磁石でくっついて閉じるタイプのものだ。
少し考えた後に、妙子はハッとした。
「あー!コンパス!」
「エグザクトリー!その通りでございます!」
二人が互いに指を指す。そして。
「「おぉー!!」」
思わず両手で握手して、楽しそうに飛び跳ねた。
「アンタ凄い!これは知識無双ですわ!」
「だよねー!だよねー!俺も凄いと思った!」
二人は先が見えた幸福で気持ちが昂ぶった。
早速、先ほど来た泉の場所に戻り、太郎は木の葉を一枚、泉に浮かせた。
そして、手帳型ケースの、磁石のある部分をちぎり、皮を剥いで磁石を取り出す。
それを葉っぱの上に置いた。
「「……」」
ジッと、静かに見守る二人。
手帳型ケースの磁石は学校などで使うものより磁力が弱いと聞いた事が妙子はある。しかし、それでも磁石なのだから少しは反応してくれるはず……。
二人は息を飲む。どうか、動いてくれ……!
すっ――と、葉っぱが動いた。
「「!!」」
思わず顔が崩れる二人。
使える!
そう確信を持った。
これにより、方角が分かる様になったのだ。
分かれば、同じ道をぐるぐる回る事もなくなる。
極端な話、進んだ方向にまっすぐ進むだけでも、確実に外に出れるのだ。
「よし!これを使って北を目指しましょ!」
「おー!……って、あ。ちょっと待った」
「どうしたん?」
「桶、無いやん」
この泉で方角が分かっても、この場を離れてしまったら結局変わらないのでは無いか?と、太郎は思ったのだ。
しかし、そこは妙子が機転を利かせた。
「大丈夫よ。私もスマホ作戦するから」
自信たっぷりの顔で、妙子はスマホを取り出す。こちらは、スマホカバーをつけていた。
そのカバーを取り外し、カメラの部分などの、穴が空いている箇所に柔らかい葉っぱを上に敷いて、それから泉の水を汲んだ。
水は穴からは垂れて来ず、ちゃんと含んだ。
「お、おぉー!」
太郎は素直に感心した顔を見せる。
「これなら行けるわね!」
妙子も満面の笑みを浮かべた。
そして、また嬉しさのあまり、今度は互いに握りこぶしを作り、コツンと当てた。
「あっ、ちょっと痛い」
太郎は思わず勢いよく当ててしまったせいで手を撫でて痛みを和らげた。
「全く、弱い体ねー」
「これが女……。なんて不便なんだ……!」
「いや、多分アンタ自身が弱いだけっしょ」
太郎は反論出来なかった。
そして、二人は時折立ち止まりながらも、北へと向かって歩いて行った。
そうして、ある一本の大きな川に行き着いた。
「!僥倖ね!」
あとはこの川を登るだけ。
この川は普段見る川と同じ色をしているので、あの泉の様に、飲めるか分からないものとは違うと分かったのも嬉しかった。
「あー、川を見つけたら喉乾いたー。これって飲んでいい奴?」
「分からない。けど、色は普通だし、多分?」
一応周りに注意を向けてみるが、物音はしない。危険な動物は多分いないだろう。
「やったー……。いやぁ、もう疲れてさー。水欲しかった所だったんだよね」
そう言って、太郎は川の水に手を入れる。
ひんやりと冷たくて心地いい。
小さな両手で水を掬い、スッと口元に運んでそれを飲む。
「ごくっ、ごくっ……。うんめー!」
些か、可愛らしい顔からは思いも寄れないほど荒っぽい言葉だったが、太郎に活力が満ちたのを妙子は見て取れた。
「私も!」
と、妙子も同じように水を飲む。
「プハーッ!生き返る!」
妙子も、疲れが取れたような感覚を覚える。
実際、この調子なら、この日の内に降りれるかも知れない。
水を飲み終え、二人は早速川に沿って登り始めた。
「そいや、魔物はいなかったなー」
太郎は突然そんな事不吉な事を言ったので、妙子が制止した。
「よしなさい。言わなければフラグ立たないで済むから」
「あ、はい」
そうして、妙子の予想通りに、人の作ったものと思われる道を発見出来た。
「すっげ。妙子の言った通りだ」
太郎も妙子も、ニンマリと笑っていた。
この道を降れば、確実に人のいる場所につけるのだから。
更に、太郎はもう一つある物を見つけた。
その道を登った所にそびえ立つ、一つのログハウスである。
随分とくたびれた見た目で、コケすら生えている始末。人が住んでいる様には遠目では思えなかった。
「なぁ、あれ」
それでも、人の痕跡を気にせずにスルーするのは太郎には出来なかった。
ゲームでも、太郎はストーリーを進めるより先にダンジョンの宝箱を開けるタイプなのである。
太郎がそれに指し、妙子もそのログハウスを見つけた。
「おぉ……良く見つけたわね」
なんとなく、妙子は太郎の観察眼に信頼を寄せた。
妙子自身はそれほど周りを見ていなかったので、この様な見落としを結構してしまうのだ。
「行くか?」
問われるまでもなく、太郎は行きたがっているのを妙子も察した。
どう見てもワクワクしている子供の顔である。
実際、太郎も心の中では既にそのログハウスの事で一杯だった。
無言で妙子がコクリと頷くと、やったぜ!と太郎はガッツポーズをしたのだった。
目の前にまで寄ると、先ほどの印象よりもなおボロボロに古びていると分かる。
所々床落ちしており、天井にも穴が空いている。
人の暮らした形跡自体はあるものの、過去の話である。そうまざまざと伝えてくる様だった。
二階建てのようで、玄関の反対側に風化しボロボロになった煙突と廃棄された風呂桶、薪割りの為の作業台などが置かれている。
また、薪を集める為の小屋もあり、いくつかの薪も見つけ、さらには鉄製の伐採斧も見つかった。
これを見て、少なくとも人と呼べる者が確実にいる事が分かった。
妙子は些か、人が存在しない世界にいるのではと可能性として考えていたので、これは素直に嬉しかった。
……まぁ、猿の惑星の様な事もあるかも知れないが。
「中、入ってみるか?」
太郎は外周を一通り見てから、妙子に尋ねる。
「うん。気になるものね」
そう言って、二人は玄関前の扉に立った。
「……」「……」
しかし、二人は黙ったまま、微動だにしなかった。
「中、入るんじゃないの?」
最初に言ったのは妙子である。
ピクリと太郎は動き、苦笑いと共に
「お前、先に入っていいぞ?」
と言った。
(こやつめ……)
妙子は心の中で呟く。
正直、二人とも、中に入るのが怖かった。
よくあるホラーものではこんなオンボロなログハウスはまさに格好の舞台だったからである。
互いが互いに扉を開けたがらないのに気付いた時、二人は思考をフル回転させた。
そう、どちらかが人柱にならねば、話が進まないのである!そして、その犠牲は隣に立っている人に押し付けたいのである!
真っ先に切り出したのは太郎であった。
「レディーファーストって言葉、知ってるよな?俺は紳士だから、お前から先に入っていいぜ!」
嫌な事を押し付けたいだけの、紳士とは程遠い心構えでいい放つ太郎。しかし、妙子はそのセリフを読んでいた!すかさず返す!
「そう。つまり、今のアンタにこそ、先に扉を開ける資格があるってことね。だって今のアンタは女だからっ!」
心と体、どちらを真に女とするか。これはその勝負となった。
「バカを言え。俺はたしかに体こそ女かも知れん。だが!俺自身は女だと認めた訳じゃない!ならば俺は女でない事は明白だ!」
「性同一性障害の法例って知っているかしら?第2条の1番目の条件に、【20歳以上】が別の異性であると認められるのよ!つまり、高校生の私達は、肉体にその性別が依存するのよ!」
そんなのしらねぇ!法例とか持ち出すなや!
太郎は一気に向かい風に立たされる。何とか言い返さねば、太郎が開ける羽目になる。
正直それは嫌であった。何故なら、太郎は生粋のホラー嫌いだからだ。
かくいう妙子もまた、ホラー耐性はない。仮に目の前に鬼◯郎が来ても、失神する自信がある。
両者負けられない戦いがここにはあった。
追い風に立たされる太郎。ここで会心の一撃を与える方法を見出す。
「まず、ここは日本じゃないから法例なんて適用されないからぁ!」
一打!
確かに、妙子が持ち出したのは日本におけるルールである。ここが日本であるならば、間違いなく太郎は負けていただろう。しかし、現在、立っているここは、異世界なのである。であれば、そのルールは無効となる!
妙子も、そこを突かれると弱い。これによって、有利だった形勢が同等になった。
そこにすかさず太郎は2発目を打つ。
「今のお前の格好を見ろ!完全に女子の姿じゃねぇか!」
そう、制服である。
服というのは性別を判定する為に分けている。
ことここに至っては、女性服を着ている筋肉質な男性でも、着飾れば乙女理論を展開するのも吝かではない。
「い、いや!いやいや!その理論はおかしいって!それなら男装した女子は男だって言いたい訳!?」
「おうとも!」
そういえば、太郎も、男性服だった。なんと強引な理論であろうか。
しかし、妙子は否定の仕方を間違えてしまったのだ。これでは太郎の理論を補強してしまうだけだった。
畳み掛ける様に、太郎は3発目の言霊を放つ。
「最初に出会った時の事を思い出せ!お前に対して【野郎】と言った時、お前はキレていたよな!?つまり、お前は女である事を自分で認めたのだぁー!!」
「ぐっ……、ぐぁぁぁぁ!」
この勝負、妙子の完敗で終わった。
「さ、フロイライン。お先にどうぞ」
清々しい程の綺麗な顔で、妙子を煽る太郎。
しかし、妙子はそれに従わざるを得なかった。
だが、妙子も悔しかったので、とりあえず肉体的強者として、太郎にデコピンをお見舞いした。
「いったぁぁぁい!何すんだ!」
「いや、なんかムカついたから」
しれっと言って、妙子は覚悟を決める。
心臓の鼓動が早く脈打つのを感じる。中は確かに気になるが、例えばこの中に人食い鬼がいたりしたらと思うと怖くて震える。
そうでなくても、虫とか一杯いそうだし。いや、むしろそれが怖いのでは!?
「あ゛〜、気付かなきゃ良かった……」
後悔しても遅い。
いっそ、目を瞑るか。そう思いながら取っ手を掴む。
「南無三!」
まぶたをぎゅっと閉じて、思いっきり開けた。
「な、中は……?どうなってる?」
太郎は恐る恐る妙子に聞いてみる。
ゆっくりと妙子はまぶたを開け、周りを見渡した。
「……割と普通ね」
内装は外装同様にボロボロではあったが、直せば住む事も出来そうだった。
床落ちが目立ち、やはり天井は、いろんな箇所が抜けているが、幸い、玄関左のリビングに当たる所には穴がない。
リビングには木製の机が一つ、椅子が4個程あった。
カビが生えているが、紙ヤスリなどでやれば綺麗に使うことも可能だろう。
その床には綴織のされた長方形のラグがあった。随分と汚れてはいるが、これだけで、ここの家の持ち主は随分な金持ちであったのが伺える。
右には本棚と、二階へ続く階段があった。残念ながら、本自体はそこにはなかったが、これも、なにかと使えそうであった。
一旦ここまでの中身を見て、妙子はなんとなく16世紀くらいのフランスを彷彿とさせた。
確か、識字率はその時代は20%くらいだった様な気がする。
仮にここが別荘だとするなら、果たしてどの様な人物が住んでいたのだろうか。
その当時は女性の識字率は極めて低かったはずなので男が住んでいたのだろう、とだけ予想出来た。
他に気になったところとしては、奥の部屋だろうか。
一つの壁と扉で部屋を分けている。
一歩、中に踏み込んで、床の軋む音に若干の不安を残しながらも、進む事を決意する妙子。
太郎も、その背中を追った。
ギィ……、と、不気味な音と共に扉を開く。
真っ先に、段差があり、先には岩の床が敷き詰められていた。そこには台所と、右側に浴槽。そして左側には扉。この扉の先は、おそらくトイレなのだろう。
妙子個人の感想としては、海外などでは風呂とトイレを一緒の部屋にする事が多く見受けられていたので、それが嫌だった妙子はホッとした。
それに、確か中世の時代は、前の風呂の話であったように、病気が蔓延したせいで風呂に入らない方がいいとされていた時代でもある。
だから、浴槽があるのは本当に良かった。
桶自体は木製の樽みたいな作りをしている。排水するための蓋しかなかったので、お湯はどうやって入れているのだろうかと思ったが、台所にあるかまどからお湯を汲んでいたのだろう。
ーーそういえば、この時代の風呂ってぬるま湯が普通だったっけ……。
利用出来そうな廃墟ではあるが、早速文化の違いという物を痛感した。
次にトイレがあるであろう左側の扉を開く。
「うっ……」
妙子は思わずギョッとした。
そこにはおまるというトイレがあったのだが、それはもう精神が削られる景色が広がっていた。それこそ、名状し難い何某である。
「あばばばば」
妙子は思わず開けた扉を勢いよく閉じた。
しかし、一時的狂気に陥ってしまった。
「ど、どうした?」
様子のおかしい妙子に、思わず心配する太郎。
「なんでもない!なにもみてないよわたし!ダイジョーブヨー!」
「明らかに大丈夫じゃないじゃねぇか!」
ーーこの先に一体何が……。
太郎は中を見てみようと思ったがやっぱりやめた。
目の前の妙子の様子でもうお腹いっぱいになった。この世には、知らない方が幸せな事は確実にあるのだ。
「とりあえず、ここには誰も居なさそうだし、使っても居ない廃墟だし、一旦住まう場所は確保出来たって事でいいよな」
「うんー、ソウカモネー。ハイキョデキモダメシトイウテイカラビーエルニモッテイクナガレッテイーヨネー」
早くコイツを正気に戻さねば。
なんだかんだ頼りになる奴が残念な事になっているのは心も都合も悪い。
とりあえず、リビングの椅子にでも座らせるか、と太郎は妙子の手を掴む。
「おっと、可愛いお嬢さん。私は百合じゃないから、積極的なお誘いは勘弁だゼ!ヨホホのほー!」
「うっせぇよバカ!さっさと正気に戻れ!」
どんだけヤバいものを見たらそうなるんだ。
……昔のテレビみたいに叩けば直ったりしないだろうか。
そう思い、頭を叩こうとする、が。
「……!」
そこに巨大な壁が立ちはだかる。
太郎が女になり、妙子が筋肉質な男になった事で、両者の間に身長差が生まれていたのだ!
頭の天辺まで、手が届かない!
「チクショー!!」
泣いた。思わず太郎は泣き崩れた。
なら、とりあえずリビングまで連れて行って、椅子に座らせよう。
と、グイッと引っ張ってみる。が。
妙子は全く微動だにしない。
貧弱な女の力では、筋肉質の男を引っ張る事が出来なかったのだ!
「ふっざけんなよもうっ!」
自身の非力さに怒りすら覚えた。太郎は号泣した。
それならばどうするか。
太郎は一旦外に出て、ある草を取ってきた。
見た目はネコジャラシの様な草であった。
「ほーら、これを見てみろー」
そう言って、リビング前で妙子に見せつける様にネコジャラシ擬きを振る。
それを見た妙子は「オモチャだー!ワーイ!」と勢い良く飛びつこうと両手を上げて構える。
筋肉質な男の、プロレス技の構えみたいな姿を見て、非力な太郎はこう思った。
(超怖い!)
全身の血の気が引く感覚を覚える。最悪、自分は死ぬんじゃないかとすら思えた。
そうならない為にも、太郎は全神経を尖らせた。
しばらくの沈黙が流れる。それはまるで剣道の試合の様に、洗礼された空間であった。
太郎がまぶたを閉じたその刹那ーー妙子は破竹の如く飛び出し、太郎の手に持った草目当てに突進する。
「……ーーっ!」
一筋の光が通った様に太郎は感じた。それは、通称悪寒と呼ばれる物に違いなかった。
太郎は闘牛士の如く、ヒラリと華麗に避ける事に成功する。
そして、無様に床に衝突した妙子に、1発、重たいパンチをぶつけるーー!
「「いったーい!!」」
妙子は言った。頭を撫でながら。
太郎は叫んだ。殴った手の痛みで転がりながら。
「何すんのよ!……って、何してんのよ」
妙子はどうやら正気に戻った様だった。
よかった、と安堵したいが、それより手の痛みが尋常じゃなく痛い。本日の内に、太郎の手は酷使され過ぎたのだ。
「正気に戻ったなら良かった。とりあえずここに一旦住むって事でいいよな?」
「正気?……あっ、うん、そうね」
どうやらさっきの一連の流れは妙子は覚えてない様だ。いや、ある意味救われたか。
あんなバカな姿を覚えていたのなら、俺だったら自殺ものだ。
「じゃあ、拠点は確保出来たって事で、いいよな。今から道を下ろうぜ」
「ちょい待って」
太郎を止めた妙子は、空を指した。
空はすでに暗くなっており、星空が見えていた。
「行くのは明日でいいんじゃないかしら」
「んー。たしかに」
無理に行っても危険なのは分かっているので、太郎も頷く。
ふと、行動力が失われると、ある事に気付いた。
お腹が空いているのだ。
そういえば、ここに来てから何も食っていない。
「ところで飯はどうする?」
そう聞く太郎だったが、何もないことは分かっていた。どちらも食料なんて持ってきてはいない。
仕方ない、耐えるしかないか……。と、太郎が思ったが、妙子はしらっとこう言った。
「あるわよ。ほら」
と、妙子は石ころ程のきのみを一個太郎に渡した。
「!?え……?んん!?なんであるの!?」
「道に迷った時にいくつかきのみを取ってきたのよ。あー、大丈夫。それ食えはするやつだから」
そう言って妙子は残ったきのみに齧り付く。
「い、いつの間に……」
「一回目の、あのルビーの泉に行った時」
その時に、妙子は数種類のきのみを摘んできたのだ。
ある漫画の知識を頼りに食えるきのみを剪定した結果、一種類だけ、食えるきのみがあると分かったのだ。それが判明したのはこのログハウスに辿りついたタイミングではあったが。
「お前、やっぱりなろう主人公だろ……」
太郎は尊敬の意を込めてそう言った。
「いやー、幸運って意味じゃたしかにそうかも。知らない食べ物の剪定なんて、普通は一個につき三時間以上かかるもの。いや、一つ大事な工程を飛ばしてるから、真に大丈夫とは言い切れないんだけどね」
「えっ」
「まぁ、いいから。どうせこのままだと飢え死にじゃない。こんだけ動いて何も食わないと、体に悪いわよ」
聞き捨てならない事を聞いて不安になった太郎だが、きのみを食い終わった妙子を見て、太郎も決心がついた。
ゴクリ、ときのみを食う。
味は全くしなかったが、後になって渋味が口を襲った。
「ま、不味い……」
「仕方ないじゃない。今はワガママ言ってられる状況じゃないでしょ」
全くその通りだ。
ほんの一粒のきのみを食い終わり、妙子と太郎は二階に続く階段を上がった。
こちらも老朽化しているのか、ギィギィと嫌な音がなる。
「不気味よね、これ」
妙子はそう呟きながら、二階に着く。
そこには一本の廊下と、二つほどの部屋に続く扉がある。廊下は狭く、一人分の幅しかない。
奥に進み、手前の部屋に入ってみる。
予想通り、そこは寝室であった。が、妙子としては些か気分を害する内装であった。
汚れてはいるが3人分にはなるであろう大きなベッド。その隣に化粧台と思われる机が一つ。
ほかに、女性が暮らしていたであろう髪留めの残骸や、チュニックと呼ばれる服が少なくとも5人分。どれも女性のものである。
もう一つ奥の部屋を見ると、嫌な予感が的中した。
そこには、宗教関連のものと思しき本と、煙にして使う葉っぱの麻薬セットがあった。こんな物だけは、元の世界と同じなのは、妙に現実感を覚える。
考えたくもないが、どこかの偽神父が、女性を騙して麻薬の売買などでもしていたのだろう。
その後の女性がどうなったかなど、想像したくもないが。
あまり心地のいい情報ではなかったが、本が見つかったのは大きいと妙子は思った。
この文字が例えば自身らの知っている文字ならば、いくらかは融通が利く様になるだろう。
しかし、もうすでに夜である。
この暗い中では、目の悪さも相まって、見れたものではない。
ここにもベッドが一人分のサイズで存在するが、こんな所で寝たくはない。それに。
後ろを振り向き、女性の姿である太郎を見つめる。
「?」
太郎はその部屋を見ていないのでキョトンとした様子だった。
(太郎にもこんな所で寝て欲しくない)
心がどうあれ、太郎は女になっているのだ。こんなゲスな男の部屋で寝かせるなんて絶対出来なかった。
「こっちの部屋はだめね。前の部屋を使いましょう」
そう言って妙子は太郎を前の部屋に入れさせて、ベッドの上の埃や汚れを払い落とす。
散らばった服は、貴重な布なので、折りたたんで側にある机に置いた。
「え。一緒のベッドに寝るの?」
太郎は尋ねた。
「そうよ。……何よ。どうせお互い同性には興味ないんだから問題ないじゃない」
妙子は男で、太郎は女。
妙子は別に百合なわけではないし、太郎だってホモではない。
異性同士ではあるものの、奇妙な事に問題はたしかになかった。
心の踏ん切りは、妙子はすでに出来ていた。
先ほどの部屋を見た時に。
太郎はどうであろう。
「……あー、そうかよ」
太郎はしばらく悶々としたが、諦めた様にベッドに寝転がる。
妙子には背を向ける形で。
それを見て、妙子もベッドに横になった。
「……1日目から、とんでもない日だった」
呟いたのは太郎だ。
「訳わかんない所に飛ばされるし、体は女になるし、そのくせチートは貰えないし。あー、もー、最悪」
「道に迷ったのも参ったわよねー。でも、機転を利かせてここまでは来れた」
「うん。一人じゃ絶対どうにもならなかった」
太郎の口ぶりは大人しいものだった。
妙子も、随分と昔の様に感じていた。
「……明日は、どうなるんかな」
「分からないわよ、そんなの」
明日になれば、解散すると言った手前、取り消したいなんて言えないが、物悲しさは感じた。
「あのさ。思ったんだ」
太郎はゆったりとした口調になっていく。あくび混じりの声だ。余程疲れていたのだろう。
「なにさ」
「この世界について、俺たちはまだ知らないんだ。だからさ」
「うん」
「もうちょっと……」
と、太郎の声はここで途切れた。代わりに寝息が聞こえてくる。
「何よ、もう。続きが気になって眠れないじゃない」
とか言いつつ、妙子もまた、大きなあくびが出た。
このまま瞳を閉じれば、夢の世界へと行けるであろう。
ゆったりとまぶたを閉じながら、今日の1日を思い出す。
割と、悪くない日だったーーと、妙子は思った。
次回はようやく街に着きます。
備考としましては、風呂について。
中世のフランスはこの当時は風呂の事で色々な問題がありました。
14世紀程に前の回にあった様に混浴があったのですが、衛生観念の欠如により、梅毒が流行ったらしく、それ以降16世紀で辺りでこの様な物は無くなって、個人で風呂に入るようになったそうです。また、日本と違い、湯船はとても温かったそうです。
トイレについては……。
まぁ、その時代にタイムスリップでもしてみれば、多分妙子みたいな事になると思います。