9話 夜の世界
サバイバルにおいて、紐というのは多くの利用価値がある。
例えばそれは何かを束ねたい時。弓矢のみならず木などを固定させたい時は必須と言えよう。
他に罠の作成や、テコの原理を利用した重たい物の荷物運び、極めればシーツなどを作ることも可能だろう。
そして、柵を作るのにも、紐というのはとても重要な役割を果たす。
今回作る柵は木製の杭に、木の棒で間に壁を作る形になる。
その為には、紐でその杭と棒を固定しなければならないのだ。
彼らはどれ程の範囲の柵を作るかをまだ想定していないが、かなりの数が必要である事自体は察している。
が、それと生産量というのは釣り合いが取れるというわけでは別にない。
その日の晩ーーと言っても午後三時なのだが、妙子がきのみを数個持って帰って来た時、リビングには多くの草が溢れかえっていた。
「ちょwww、何これwwwマジ草」
「草を生やすな。なんだよ、紐を作ってるんじゃないか」
太郎はリビングの床にあぐらをかきながら紐を作っていた。
妙子は置かれた草を見てみる。草と言うよりは茎の様だった。
「これは?」
妙子の問いに、太郎は作業を一旦止める。
「イラクサって奴だよ。実際そうかは知らないけどな。芯のあるツタみたいな幹してるだろ?これから取れる繊維で紐を作るんだ」
そう言って一本幹を手に取る。そして全体をグニグニとほぐしていき、それから芯のある薄い紐の様なものを裂けるチーズの様に取っていく。
そうして取った繊維の束を膝の上に乗せて全体的に捻って撚りをかける。
それで終わりかと思いきや、その撚りをかけたものの中央を折って両端を先程とは逆の方向に捻る。
するとこんがらがった糸の様に絡み合い、少し太めの糸になっていった。
長さとしては10センチ程だが、太郎から手渡された妙子がその糸に触れてみると、結構な強度になっていると分かった。
この糸は合糸と言って、サバイバルにおいては基本的簡単に作れる糸である。
「へぇー、紐ってこう作るのね。でも短くない?」
妙子は関心と共に疑問を提示した。
「何、これを数本用意して、似たようにやればいいさ」
そう言って前もって作っていた合糸を10本程取り出し、片方の先端を結んだ。
「なんで結ぶの?」
「こうしなきゃ緩むだろ。それに、キツく捻らなきゃすぐに崩れるからな。結んだ方がキツくする事が出来るんだよ」
「へー」
そうしてその束を二つに分けて同時にキツく撚りながら巻き、紐と呼べる見た目になったものを、四分の三程まで作る。すると束になっている部分の長さにばらつきが生じ始め、新たに合糸をそれぞれの糸に捻りそのまま同じように作る。
「おおー。ちゃんと長い紐になった」
長さとしては20センチには行かないものだったが、それでも長くなっているのを見ると楽しく感じた。
「さぁ、これを後一万回くらい繰り返すぞー」
太郎は死んだ目で言った。
「……うわー、草も生えない」
それには妙子も白目になる。が、実際にこれを元に作るなら一万回程度では終わらないだろう。
「草なら見渡す限り沢山あるぞ、ほれ、やるのだ」
太郎は既に死んだ目で妙子に勧めるのであった。
しばらくして太郎は周りが暗くなって来たのを感じるとスマホを取り出した。
「……やっぱりなんか夜になるのが早いよな」
時間は午後四時なのに既に夕焼けも暮れている。
「これ、本当に時間あってるのか?もしかして2時間くらいズレてないか?」
「……さぁ。ぶっちゃけなんとなくフランスと言っただけだしなんとも。一回早く寝て早く起きてみる?」
妙子がそう聞くと、太郎も頷いた。
とりあえず妙子は外の様子を伺い、魔物の気配がないと分かるとすぐにログハウスに戻った。
そして、その日に取れたきのみを食ってから、二人は寝室に入る。
時刻はまだ午後五時。どれ程疲れようと人の体はある程度一定の時間で起きるもの。
アニメなどで表現される一日以上寝ている描写というのは、意識が消失している時くらいでしか起きないらしく、実際の所はそうではないらしい。
(それはそれで深夜に起きちゃうから困るけど……)
起きてしまう目安は翌日の午前1時くらいか。
どうしよう、そんな暗い時にやる事がない。
「深夜に起きたら紐作りな」
妙子の心を見透かしたかのように太郎は言って早速眠りについた。
すーっ、という寝息が聞こえるが、彼の体は傷だらけで寝づらい筈。
それだけこの世界に来てから疲れっぱなしだったのだろう。
「なんかなぁ……」
よくすんなりと眠りに入れるものだと感心はするが、危うくも思える。それだけの疲れを表面に表さないのもなかなかのものだが……。
「いや、やめよう。なんかここに来てから変な深読みのし過ぎね……」
今のところ太郎の様子は平常なんだし、下手に勘ぐる必要もないだろう。
とりあえずは、自身も眠りについて、起きてから考えることにしよう。
そうして妙子も横になって瞼を閉じる。体の疲れは正直なようで、休めると分かるや否や太郎同様に眠りにつくのであった。
そして午前1時に二人は目覚める。
一応この時点で5日目になるわけだが、周りの様子は深夜そのものであった。
普段と違う点と言えば、都会とかでは聞くことのない「ホー、ホー」という独特な音?声?や、静謐過ぎて逆に耳が妙にキー……という異音が聞こえてくる。
また、外の音に意識すればカエルと聞き間違えてしまいそうな「カラカラ」という音やキリギリスの羽音のようなノイズが聞こえてくる。
妙子は、深夜の夜はいつもBGMを流すか、車の音などばかりを聞いていたので、この様な事に物珍しさを覚える。
対して太郎は比較的田舎寄りだったので聞き覚えのあるいつもの音程度に思っていた。
ただ違うとすれば、明かりをつければ周りをすぐに確認出来るところを、真っ暗すぎてできない事。そして、そもそも明かりが月の光以外ない事だ。
「……何も見えねぇ」
太郎は髪の毛をポリポリ掻きながらスマホを取り出して現時刻を確認する。
「うわ、完全に深夜じゃねぇか。あとスマホが眩しっ」
目を細めて時間を見終わった太郎だったが、ふと右上のバーを見てゾクリとした。
なんと、太郎のスマホの電池残量がもう1%になっていたのだ。
「はっ!?嘘だろちょっ!」
そう言っている間にも、スマホは最後の電力を使い果たし、シャットダウンしてしまった。
「アァァァァァ!うっそだろぉ!?マジかよぉ!」
思わず悲鳴をあげる。
真っ暗な中の頼れる味方が御臨終されて、大切な友を失ったかの様に感情が揺れる。
「ちょっとうるさい!」
太郎の叫び声に、ぼんやりとした意識だった妙子もすっかり目を覚ます。
状況は周りが真っ暗なため全く確認出来ないので、妙子視点だといきなり太郎が叫び出しただけに見える。なので驚いて心臓がバクバクとなる感覚を覚えてしまった。
「スマホ!電池切れ起こしたんだよ!」
「うわぁ。ご愁傷様」
妙子は瞼を擦りながら太郎の声が聞こえる方に顔を向ける。
周りが暗過ぎてどこに太郎がいるのか、音でしか確認出来ないが。
「あー……、しばらくしたらまた電源ついたりしねーかな……」
すっかり意気消沈した声色だった。
実際に切れた時はかなり不自由しそうだと思った。スマホは時間を知るだけでなく、カメラやライト、メモの役目も果たす。
例えネットに繋がってなくてもその有用性は損なわれる事はない。ましてや紙の資源もなく、手軽に使えるペンも存在しない。情報の保管もスマホで出来るのだ。
「使わない時はちゃんと電源切り落とさないと」
「今更すぎるアドバイスじゃねぇ!?もうちょい早く言ってくれよ!」
「いや、まぁ、そうなんだけどさ。でもぶっちゃけ滝に打たれた辺りでアンタのスマホはもうダメだとは思っていたわ」
実際その通りで、水に濡れた時にスマホには大きなダメージを負っていた。そこからライトを点けたのが更に電池残量を減らした要因である。
それを説明するとうなだれた様子でこう言った。
「……これから真夜中でトイレ行きたくなった時、真っ暗な中で用を足すのか」
「あっ……」
絶句。
妙子はその言葉が出るまでそれに気付かなかった。いや、むしろ気付かないように自身で誤魔化していたのだろう。自ら忘却したそれは、太郎の言葉で一気に重たくのしかかる。ますます自身はスマホを温存しなければならないと緊張感を増す。
「と、ところで何時だったの?」
それが怖かった妙子は話題を変える。
「午前1時。まじ深夜だよ」
太郎はそう言ってベットから出る。
スマホはもう使えないので枕の裏に置いた。
瞼を細かく瞬きしながら太郎は自身の目のレンズを調整する。それでも暗いものは暗く、月の青白い光に照らされたわずかな部分のみを頼りに位置を把握する。
「今が時計の設定よりも2時間ズレているのならば後2.3時間後に日が出る訳だよな」
天井に空いた穴から空を眺める。
吸い込まれそうな程の黒の空と、数多に瞬く星の数々。日本の空から眺めた星の量とは比べものにならない程煌めいていた。
それを見て、一瞬にして心を奪われた太郎は全体を見ようと足が勝手に動き出す。
扉を開けて、暗い中で階段を降りる。
玄関の扉までの道のりにあるいくつもの穴に転びかけつつもそれに手を掛け外に出る。
室内よりやや明るい外の世界は青白い光を頼りにその世界を広げている。
太郎はその空間の中心に立って、天を仰ぐ。
「……すっ……げぇ……!」
そこに映し出されたのは天に散らばった無限の宝石だった。
そこかしこに光が煌めき、ともすれば天の川の様な星の群れが夜空を支配しているかの様だった。
太郎は決して詩的な人物ではないし、その表現もまた無粋なものである事も多いが、その代わりに素直な感想があふれていた。
「すげぇ!こんなのアニメの過剰表現でしか見た事がねぇ!これヤベェ!赤や青い光とか色々あるぞおもしれぇ!」
語彙力の無さが露呈しているが、それ程までに太郎はその夜空に魅了されていると伺える。
しばらくした後に、妙子もまた、太郎の声につられて外に顔を出す。
太郎が空を仰いでいるのを見て妙子もまた空を見つめる。
……一つ、心に風が吹いたのを覚えた。
妙子の中では感想よりも先に感嘆の声を漏らしていた。
この感情を深く表現出来ないが、ただ一つ、思ったことが妙子にはあった。
思っていたよりも自身は何も見ていなかった事だ。
周りを探るこの四日間であったが、どれもこれも自身の狭い知識の世界を基に考えていた。
……いや、それだけなら誰だって同じはずだ。自身の知識の中から最適解を選ぶ事でしか人の行動は得られない。
ただ、この夜空を見渡すと如何様なものも最適解であったのではないかと思ってしまう。
無限の可能性を表現しているかの様に、彼女には見えた。
もちろん、この感想もまた彼女の知識の中から見出した答えである。
夜空は決してメッセージ性を表現したかった意図があった訳でもなく、ただそこにあるだけの概念でしかない。
それでもそれは二人を魅了させるに十分だった。
一つは単純な娯楽として。一つは心の有り様を見つめ直す機会として。
この夜空を、ただただ二人は各々自身の気持ちに照らして堪能したのだ。
それから5分後に太郎は地に視線を降ろす。
未だに空を見つめている妙子の姿が見えたので、邪魔をしないように声を殺して室内に帰っていった。
心がまだ跳ねている事を太郎は感じつつ、この気持ちのままで紐製作の作業に取り掛かるととても効率よく出来そうだと思った。
なので、まずは周りが見えるように台所へと向かい火起こしをした。
……のだが、火を起こすアクションまでで太郎の気持ちは落ち着いてしまった。
夢とは目覚めて消えるから夢だと言うが、些か太郎には夢とはあまり意味を成さない虚空感のあるものだったようである。
それでも、やらねばならない仕事はあるので、気乗りはあまりしないものの取り掛かる事にした。
先ほどの高揚感を思い出しながら、誤魔化し誤魔化し作業する。
しばらくすると、ようやく妙子も外から戻って来ていた。
台所から火の光が見えると、その明るさを求めてフラリと歩いていく。
「あ、終わったか。ほれ、やれ」
焚き火に着くや否や、太郎は妙子に草を分ける。
それを渡された妙子はやや顔が引きつりながらも、焚き火を中心に囲うように座るのだった。
(うわ、冷た……)
スカートとパンツのみなのでひんやりとした石床に心の中で呟く。
太郎は平気なのだろうかと様子を見るが、至って普通に集中していた。
(うわすご……)
感心しつつ、妙子も作業に取り掛かった。のだが。
「……、あーっ、しまった、千切れた」
「はぁ?千切れたって……。繊維の取り出しの時点からか?力み過ぎなんだよ多分」
妙子はイラクサを揉んで繊維を取り出す工程で強く引っ張り過ぎた故に何度も失敗した。
最初はよくある事だと思い強く引っ張らないようにと説明をしたが、それでも何度かの割合で千切れていた。
「お前アレなのな。結構不器用なんな。絵を描いてるから何となく器用だと思っていたわ」
「絵が描けるのと器用なことは決して両立はしませんて……」
絵だって頑張って練習したり模写したりしたから上達したのだ。それまでは下手の横好きに等しかったのだ。
それでも悔しいものは悔しい。どうもこの体だと細かい作業はうまくやれないように思えた。
前よりも太い指のせいで今まで出来た事が地味に難しくなっている。
「まぁ、構わんさ。どうせ草は沢山生えてるしな。いくらでも失敗するがいいさ」
そう言いながらコツコツと合糸を完成させていく太郎。
いつのまにか30本は出来上がっていた。
対して妙子はまだ12本。半分も進んでいない。失敗した草も8本なので単純な生産率も太郎の方が上であった。
太郎は妙子が悔しがるのを見て、絶好のマウントチャンスと見た。
「おっと、俺はもう50本出来たぜ。妙子はどうだ?」
「聞くなや。……13本」
「かーっ!マジかー!かーっ!」
こやつめっ……!
妙子は煽って来ている事に悟ると、ますます悔しさが増した。なまじ容姿端麗な女性の姿であるのも効果的だった。
しかし、ここで突っかかるのも大人気ないと思った。
自身は大人のレディーである事を慎み深く理解しているのだ。単純な挑発に乗る妙子さんではないのだ。
深呼吸して、今の時刻をスマホで一旦確認する。
そして、その時間帯から一気に連想ゲームの様にある事を思い出した。
今の時刻は午前2時。
それを見たときに妙子はイタズラ半分にこれを使おうと思った。
……クドイかもしれないが改めて説明しよう。妙子も太郎もホラーは苦手である。
「……今、2時」
「ふーん。まだまだだいぶ時間あるな。手を休めるのはまだ先だな」
「この時間帯ってさ。……丑三つ時って言われるのよね」
「丑三つ時?あー、どっかで聞いた事あるなー、なんだっけ」
「その時間帯になると周りは寝静まり、現実との世界とは別離して、妖怪とかが出るんだって」
「……ん?……おいおい、なんだよこの流れ」
話の最中で早速なんか嫌な予感を感じた。正解である。が、それの対処の仕方は間違いである。
妙子は続ける。
「でね。その丑三つ時になると丑の刻参りってのが始まるのね。……そう、ちょうどこの様な真っ暗な森の中で、頭にロウソクをつけて藁人形を杭でガンガンッと打ち込むのよ」
その時太郎は悟った。コイツ、怪談を始めやがった!
「お前……っ!ふっざけんなよ!?なんでよりによってこの時間帯にそんな話をしやがった!?」
悔しかったからである。が、しかし妙子もホラーは苦手である。つまりはこの怪談は諸刃の剣なのだ。
「さ、さぁ……なんでかしらね。……本当、なんでかしらね?」
最初は挑発気味だったのに、改めて自身の行動を顧みると途端に後悔が押し寄せた。
体は震え、目は怯えている。
「私はなんでこんな事を言ったのかしらね!?」
もはや自暴自棄である。
「知るかよ!?お前が始めたくせになんでそうなるんだよ!?バカじゃねーの?!」
太郎は出来るだけの罵倒を浴びせかける。
もはや作業どころではなくなった。周りが真っ暗な中、焚き火だけが安息をもたらすものである。
それ以外が途端に恐ろしく思えてくる。そして、その恐怖心の結果、ありもしない幻聴すら聞こえてくる始末である。
「……ちょっと待て。なんか女の声が聞こえないか?」
太郎は妙子を静かにするよう促しながら言った。
「なんか言っている……?叫び声の様な……、でも消え入る様な……」
誰でしょうか。いいえ、木霊です。
深い夜の山の中で自身が叫んだ声の反響が聞こえて来ただけである。
しかし、太郎は自身が女の声になっていたのも忘れ、ロウソクの女ではないかと思い始めた。
そして、普段察しのいい太郎がその様な事を言うと妙子もまた本気で居そうな気がして来た。
そうすると体がますます震えた。ーーそして。
「ちょ……ヤバい、トイレ行きたい」
謎の尿意の脅威に襲われた。
「はぁ!?……行ってこい、外に」
太郎は素っ頓狂な声を上げてから、冷静に対処した。
「ちょっと付き合って」
一人で外に出るのが怖い妙子は体が未だボロボロな太郎について来てもらう様にせがむ。
「や!絶対嫌!」
「なんでですかぁー!?付いて来てくださいよぉー!」
妙子にしては珍しい、本気の懇願であった。
「お前が振り撒いた事じゃねーか!俺を巻き込むなや!」
太郎はそう言って全力の拒絶を見せる。
「やーっ!お願いー!本気で無理なの!お願いだから来てよ!」
しがみつく様に妙子は太郎に迫る。自身より屈強な男の情けない姿を目の当たりにした太郎は嫌々ながらも了解するしかなかった。
そして、ログハウスからしばらく遠くの茂みにまで到達した。
「いーい?ちゃんと耳は塞いでおいてよー!?」
太郎と一定の距離をとってから妙子は言った。男の姿になったとはいえやはりこの手の音を聞かれるのは恥辱である。
その様な妙子とは反対に、太郎とてその様な物は聞きたくもない。
「んなもんに興味ねーから、頼むからさっさと済ましてくれ」
そう言いながら木の幹にもたれかかる。今太郎が抱く思いは、早く帰って焚き火に当たりたい、というものであった。
焚き火には、人の心を落ち着かせる効果が実際に存在するらしい。この様な何も分からない場所より、火の光に照らされたい。
太郎はため息混じりにその様な事を呟き、ふとある事を思いつく。
ロクでもない悪巧みだけなら太郎も負けてはいない。
妙子が用を足すと、周りを見ながらだれか見てなかったか不意に見てしまう。
もちろん誰もいないので、帰るために太郎を呼んだ。
が、しかし、太郎の声は返って来なかった。耳を閉じたから聞こえにくかったのだろうか、と思い今度は更に大きな声で言った。
「太郎さーん!」
しかし無反応であった。静まり返る暗黒の世界で、ふつふつと不安と恐怖が込み上げてくる。
突拍子もなく太郎が何かしらの要因で攫われたのではないかとか、死んでしまったのではないかと妙な不安に駆られる。
その様な事を思い出したらもう正気でいられない。
涙を流しながら迷子の子供の様にひたすら太郎の名前を呼びながら周りを探る。
遠くで太郎はその様子を聞いていた。慌てふためく声がとても滑稽で多少ザマァ……という気持ちを抱きつつ妙子の様子を伺った。
しばらくして些か声が本気で怯えていると分かると、そろそろ出てやろうかと顔を出した。
「おーい、こっちだぞー」
と。すると妙子は小さな太郎の元まで駆け寄った。
「やめてよ!怖かったんだから!」
ポカポカと太郎を打つ。
「ははは、いやー、すまない」
太郎は笑った。
「もう〜、こんなのもう嫌!」
ボカボカと殴る妙子。徐々に火力が増していく。
「アハハ……ちょっ、痛い痛い……」
気付けば段々と痛くなっていっているのが感じ取れた太郎。
「この馬鹿ーっ!」
いつしかポカポカ殴るという行為が全力のラッシュに姿を変容していた。
「や、ヤメローッ!痛い、それマジで痛い!俺病み上がりよ?!ねぇ分かってる!?」
そう抗議すると、ようやく妙子は殴るのをやめたが、代わりに太郎を全力で抱きしめた。まるで人形の様に。
(ギャァァァァァ!)
太郎の内心は悲鳴でいっぱいである。
一昨日の時こそは何か安堵感のあるものであったが、今回の物は毛色が違う。
自分にラッシュをかました筋肉質な男に突然抱きしめられたのである。恐怖でしかない。しかも締め方がかなりキツく、メキメキと音がなるかのようだった。
「アンタが変な事しなきゃこんな事にならなかったのに……」
「……い、いや、お前がホラー言い始めたのが原因じゃねぇか……」
太郎は最後にそう言い残し、気を失うのであった。