あなたの、特別な日――another view――
これは「白雪姫の継母に転生しました。連載版」の二次創作の、さらに裏話です。
(いないとは思いますが)もし表の方をお読みになっていない方は、先に下記URLへどうぞ。
https://ncode.syosetu.com/n4247eq/
覚えのある、不愉快な声で目が覚めた。
『やっほー継母ちゃん、元気だった?』
目の前に浮かぶ大きな鏡を覗き込むも、そこに映るのは自分の姿だけ。
しかしその向こうから、声は確かに聞こえてくる。
そしてそれはもう、慣れたことだった。
『……ええまぁ。あなたも残念ながらお元気そうですね』
非常に不快そうな少女の声。素直すぎる態度に、ほんの少し笑みがこぼれた。
『なんで残念なのかな!? いつものことだけど、もうちょっと僕に優しくしてくれてもいいんじゃない!?』
『必要性を感じません。むしろ会話が続くことを感謝してください』
『冷たい! この子ほんと冷たい!』
『……で、要件は何ですか。どうせロクでもないことを言いに来たんでしょう?』
『とか言って実はちょっと楽しみにしちゃってるくせに☆ 実はね、今日はある妖精の誕生日なんだけど、誰だか知りたい?』
……誕生日。
久しく聞いていなかった単語に、わたしは思わず目を瞬かせた。
『少なくとも茶番に興味はないので、単刀直入にさっさと話してください』
何とも淡白な返答。しかし、それにあの悪魔のような──いやむしろ、悪魔よりよほど質が悪いのではないか──男が、それにめげるはずもない。めげたとしても、そんなもの、ただのフリに決まっている。
『もう、継母ちゃんったらせっかちさんなんだから☆』
案の定、声は不愉快な快活さを失っていない。
『…………』
静寂が訪れ、わたしはその場を直接見ずとも、少女がげんなりしているであろうことが手に取るように分かった。
『ねぇ無言で睨むのやめてこわいよ』
『……で?』
『そうそう、今日はね、シルヴィス君の誕生日なのでしたー!』
……あの妖精の?
わたしは相手の不快な声に顔をしかめるのも忘れて、その会話に聞き入った。
『親密度を上げるには絶好の機会だから、どうにかして彼が喜ぶように祝ってね!』
『は……? あのシルヴィスですよ? 無理に決まってるじゃないですか』
『それはやってみないと分からないよね? じゃあ僕は伝えたから、あとは頑張ってね☆』
『ちょっ、勝手に何を……!』
困惑の隠せない声が、鏡の向こうから聞こえてきた。
それは、そうだろう。唐突すぎる。
少女はため息をつき、そして、
『リオリム、聴こえてた?』
そう、わたしに問うた。
鏡面が揺らぎ、少女の顔が映し出される。栗色の髪に、チョコレートのような深い焦げ茶の瞳。見慣れた少女の姿に、幾度となく感じてきた幸福感を再び味わいながら、わたしは微笑んで一礼をしてみせた、
「はい、お嬢様」
わたしの返事を確認した彼女は、眉根を寄せて呟くように聞いた。
『あのシルヴィスが喜びそうなことって、なんだと思う?』
……あの礼儀を知らない無遠慮な妖精のことだ。
現段階において別段、特別に喜ぶようなことなど、それも彼女に関わることなら尚更ないだろう。
しかしそんな返事をしても、当然彼女の助けにはならない。
わたしは彼女を困らせたいわけではないのだ。
複雑な気持ちになりつつも、彼女のためだ、いい案がないか考えてみる。
誕生日、という言葉から連想するなら?
わたしは自分の知識と浅い理解の中から、彼女のためになる情報を探し出す。
誕生日だというのなら……、やはり無難なところで贈り物だろう。誕生日には、贈り物をするのが一般的だ。機械的にそう弾き出した自身の頭に、些かの厭わしさを覚えるも、私は唇を開いた。
「申し訳ございません。明確には分かりかねますが……例えば、」
森で摘んだ花の花束は、どうでしょう。
そう言おうとして、躊躇う。
……この少女があの妖精に花束を贈るなど、想像しただけで面白くない。
勿論、別に高価なものにしようというのではない。金銭的に恵まれているわけではない彼女が、そんな高価なものに手を出せるはずもないのだ。贈るにしても、森に咲いているものを無造作に束ねた、花束というにはお粗末なものになるだろう。だが、女性が男性に、誕生日だとしても花を贈るのは、まるで何かしら意味を含ませているようにも感じた。それが赤いバラだったなら、場合によっては勘違いされても仕方ない。いや、バラなんて気の利いたものが森に咲いているとは思えない。でも、もしかしたらあるかもしれない。もしくは、妖精の中でそれを手に入れることが可能なものはいるから、彼に頼めば、難なく可能だろう。もしそうなったら?
彼女が、赤いバラを、あの妖精に。
それは、いくらなんでも──
つらつらと無駄な言葉を連ねて考えるも、とどのつまり、自分はあの妖精にこの少女の手から花束を贈られるのが嫌なのだ。
わかっている、これは馬鹿げた嫉妬だ。そんなわたしの下らない感情で彼女を困らせるべきではない。むしろ祝う相手がまだ、“彼”でなかったことを幸運にでも思うべきだ。
ああでも、そんな簡単には心の整理なんてつかない。
彼女が贈り物をすると言うのなら、……そうだ、形に残らない方がいい。
「他の妖精達に彼の好物について尋ねてみるのはいかがでしょうか?」
例えば、そう、食べ物だとか。
『なるほど。普通に考えて、好きな物をもらって悪い気はしないよね。せっかくのお祝いなんだし、何か喜ばれるものを贈れたらいいんだけど……』
少女が悩ましげに思案する姿を見て、知らず、笑みが浮かんだ。……何事にも律儀な人だと、そう思う。
『ありがとうリオリム、ちょっと誰かに訊いてみるね』
「はい。どうか頑張ってください、お嬢様」
そうして、鏡面が揺らぎ、やがてふわりと鏡の向こうの景色は消えてしまう。
……他人の誕生日など、正直どうだって良かった。
「……わたしは、あなたに祝われるはずもないというのに」
せめて、彼女の誕生日を祝うことができたら。
けれどそれも叶わぬ夢なのかもしれない。
わたしは自分の立場に、もう何百回目かわからないため息をついた。
***
「あれ、どしたの姫。なんか元気ない?」
思わずそう聞いてしまったのは、何やら難しげな顔をした少女が地下から上がってきたのを見つけたからだった。
「あ、ユンファス」
声をかけられてようやく、僕の存在に気づいた、という顔だった。どうしたのだろうか。
「ちょっと悩んでいることがありまして」
「ふぅん」
まぁそれはわかっていた。明らかに悩んでいます、という顔をしていたのだし。
「面白そうなことなら相談に乗るよ?」
僕がそう言うと、少女は何事かを言おうとして口を開いてから、一瞬視線を巡らせ、最後に
「……いや、やっぱりいいです」
と遠慮の意を伝えてきた。
……今どういう思考回路をしていたのかはおおよそ想像がつく。
きっと、悪戯されるんじゃないか、と警戒したのだろう。
それがおかしくて、僕はにやりと笑いながら、
「んー? そうやって避けられると逆に気になっちゃうんだけどな~?」
すると少女はまた考えるそぶりを見せる。
……本当に、一体何なのだろうか。そんなに悩むほど、困ることがあったとは考えにくいのだが。
「じゃあ、真面目に相談に乗ってくれますか?」
「えー」
真面目に、なんて一番つまらない。しかし少女を見てみればとても真剣にこちらを見ていて、それを茶化すのも少し気の毒に感じた。
「……しょうがないなぁ。分かったよ」
まあ、内容次第かなあ。
そう思いつつも表面上は素直にわかったふりをしておく。すると、彼女はぽつぽつと話し始めた。
要は、シルヴィスの誕生日を祝いたい、ということらしいのだが。
「へぇ、誕生日ねぇ。しかもシルヴィスの……確か、人間は生まれた日を毎年祝うんだっけ? よくもまぁ律儀に覚えてるよね、そんな日」
毎年祝うなんて、人間もよくもまあそんな難儀なことをするものだ。妖精も、妖精の王の生誕は祝うが、それ以外の妖精の中で誕生日を祝うなどという習慣は存在しない。基本的に自分たちは神から授けられた命である。神に最も近い妖精王の生誕を祝いこそすれ、それは妖精王への祝福というより命を与えたもうた神への感謝を示す儀式のようなものだ。
「そんな日って……ということは、妖精にはそういった風習がなかったりします?」
「ないねぇ。ただ、人間にはそういう文化があるってことは知識として知ってるよ。理由までは知らないけど。生まれた日は生まれた日であって、それ以上の価値があるとは思えないなぁ」
妖精によっては、誕生日などというものを迎える前に死んでしまうというのに。一体どこから、シルヴィスの誕生日の情報など手に入れてきたのだろう。自分が推測できる範囲で怪しいのは、キリティア辺りだろうか。
「それを祝って何かメリットでもあるの?」
「あー……。メリットがあるかといえば、確かに祝われる方はともかく、祝う方はないかもしれないですが」
本当に意味がわからない習慣だ。ただ何かしらにかこつけて、どんちゃん騒ぎをしたいだけなのではないだろうか、とも思う。人間はやたら祝い事を好む生き物のようだし、実は誕生日などどうでもよくて、ただ祭りをしたいだけでは……
と、そこで。
「誕生日というのは、生まれてきてくれてありがとうって伝えることが重要なんです」
……。
生まれてきてくれて、ありがとう。
そんな言葉。
……そんな言葉を、伝える日だと、いうのか。
「まぁ、贈り物とか、即物的な面もあることは否定できませんが……一番大事なのは、その人を大切に想う気持ちです」
……なに、それ。
そんなの、知らない。
そのひとを想って、そのひとのためだけに毎年祝う、特別な日?
生まれてきてくれてありがとう、って、言ってもらえる日?
そんなの。
そんなの、僕は知らない。
「……じゃあさ、姫は、……大切に想ってるの? 妖精を」
生まれてきてくれてありがとうと、伝えたいくらいに。
あんな口が悪くて、初対面で銃口を向けてくるような妖精を。
「……シルヴィスを」
大切に、想えるのか。
「は!?」
僕の問いに、少女は一瞬ぽかんとした。それから数秒。じわじわと彼女の顔が赤くなっていく。
「いや、大切は大切ですけどそういう意味じゃないっていうか、人間とか妖精とか関係ないっていうか、皆さん大切でそこに大小や上下はないっていうか! 今回はたまたまシルヴィスの誕生日だからで、その、深い意味は……!」
やけに必死になって弁解を始める少女に、僕は思わず吹き出した。
別段そんな意味は含ませていなかったのだが、まるで、恋をしているのかと問われて必死に否定しているような少女の姿に僕は笑う。
「クッ……ハハッ、も、もうだめ、姫、面白すぎ……!」
大袈裟なほど―──事実、僕はここまで笑うほどおかしかったわけではないが、今の顔を見られたくなくて、笑って誤魔化そうとした──笑い始めた僕に、少女はむっとして僕を睨む。
「な、なにいきなり笑ってるんですか、ユンファス」
「いやいや、ちょっとした冗談のつもりだったんだけど、あんまり君が慌ててるからさぁ。可愛いからしばらく見ていたくなっちゃって」
「そんな取って付けたように可愛いとか言われても説得力ゼロなんですが」
ややふくれてそう言う彼女は、「可愛い」という言葉がふさわしい気もする。その辺りはあまりよくわからなかったが、少なくとも見ていて飽きない顔だった。
「ほんと姫ってつれないよねぇ。そこがいいんだけど」
やや視界がぼやけていて、ようやくそこで僕は涙が出ていたことに気づく。
……笑いすぎたから、ではない。多分、つまらない感傷のせいだった。
しかしそんなものを悟られるのも嫌で、僕はいかにも大笑いしたせいで涙が出た、というように涙をさっと拭う。そして笑って、僕をじとっと睨む少女を見つめた。
「分かったよ。君の可愛さに免じて協力してあげる」
それに、ぱっと彼女の顔が明るくなる。
「私が可愛いかはともかく、本当ですか! ありがとうございます!」
……この子は。
何の屈託もなく、ありがとう、というのだなと。ふと思った。
「お安い御用だよ。それで、シルヴィスの好物を知りたいんだっけ?」
「そうなんです。何か知ってますか?」
好物。
好物ってことはまあ、食べ物とかでいいのだろうが、何かあっただろうか。嫌いなものならそこそこに知っている気もするけれど──と考えたところで、以前見た光景を思い出した。
……多分これなら、確実だ。
くす、と笑って僕は彼女の耳に唇を近づけた。
「実はね──ここだけの話だけど。シルヴィスってああ見えて、甘い物が好きなんだよ」
「えっ」
驚いた様子で僕を見てくる少女に、僕はさらに笑みがこぼれるのを感じた。
「衝撃の事実!! って顔してるねぇ。まぁ僕もそうなんだけど、この間見ちゃったんだよね。シルヴィスがマカロン自作してるとこ」
「シルヴィスが……マカロンを……自作……!?」
少女の目が、いっぱいに開かれる。
「料理が上手いってのは、一緒に暮らしてるからさすがに分かってきたんだけどさ。お菓子作りまでやるとはねぇ……。だから、シルヴィスには適当に甘い物作って渡せばいいんじゃない?」
「適当!? なに言ってるんですか、マカロンを自作できるようなひとに適当に作ったもの渡しても喜ぶわけないでしょう!! むしろ「ハッ、なんですかこれは、豚の餌ですか?」とか言ってくるに違いないです!」
わざわざ腕を組み、小憎らしい顔を作ってシルヴィスの真似をする少女に、僕はまたも吹き出した。
「ははっ、言いそう……!」
「笑いごとじゃないんですよ!!」
いや、今の君は相当に面白かったんだけどなあ、とは言わないことにした。ちなみに小憎らしい顔を作ったところで、顔が彼女では、すねているだけにしか見えなくて全然似ていなかった。
「ごめんごめん、お詫びにお菓子作りも付き合うからさ、機嫌直してよ」
「……本当ですか」
「ま、シルヴィスと違って僕は甘い物好きってわけじゃないから、作り方知ってるものなんてほとんどないけど。それでもいいならね」
「私にはレシピすらないので、十分ありがたいです。よろしくお願いします、ユンファス」
そう言って、彼女は律儀に頭を下げた。それに思わず目を瞬かせる。
「……君はホント、変わった人間だよね」
だから、質が悪いんだよねぇ。
そう言うこともできず、曖昧に笑う。
……そこでふと、好奇心とも悪戯心とも、もしくは嫉妬ともつかない気持ちが湧き上がってくるのを感じて、僕はにやりと笑ってこう言ってみた。
「せっかくだから、作り方を教える代わりに条件を付けちゃおうかな〜」
と言った瞬間、少女は表情を引き締めた。
「……私にできることでしたら」
思い切り警戒心をあらわにする彼女に、僕はひらひらと手を振る。
「そんなに身構えなくても大丈夫だって〜。ただ、今度は僕もこういう風に祝ってほしいな、ってだけ」
相手は人間だ。
そんなものに、期待なんか、別にしていないのだけど。
だけど、もしも。
もしも、生まれてきてくれてありがとう、って。
僕のためだけに、そう、言ってもらえたら。
「なんだ、そんなことですか」
僕の、からかうような願い事に、彼女はきょとんとしてから、あっさりと言った。
「誕生日を教えて頂ければ、もちろんお祝いしますよ?」
──もちろん、って。どういうつもりで言ったのだろう、この子は。
別に恋愛感情とか、お互いそんな馬鹿げたものがあるわけではない。けれど、彼女はまるでなんてことはないように、生誕を祝うと断言した。
普通の妖精では、生涯与えられないような祝福の言葉を、与えると。
「──そういうこと、あっさり簡単に言うんだから、ずるいよねぇ……」
……僕の方が、反応に困るじゃないか。
さっきシルヴィスを大切に思っているのかと訊ねた時のように、あたふたと狼狽えていたなら、にやにやと笑って眺めていられたのに。
「え?」
僕の呟きは、少女には聞こえなかったようだった。
──聞こえなくてよかったと思う。
「ううん、何でもないよ。それより台所へ参りましょうか、お姫様?」
少しおどけて、紳士らしく手を差し出して少女の手を乞うと、
「き、急にからかわないでください……」
彼女はおずおずと己の手のひらを僕のそれに重ね、弱々しく握った。
──この家に来た人間が、彼女で良かったと思う反面、もっと嫌な人間だったら良かったのにとも思う。
そんな僕の胸中など知る由もない彼女に、僕は何故だか罪悪感を覚えるのだった。
……それから台所で奮闘することしばらく。
「……できました!」
達成感に満ちた表情を浮かべる彼女の手元を見て僕は、美味しそうだな、と純粋に思った。
僕が提案したレシピは、ヴァルトベリートルテだった。
ちょうどこの前森で採ってきたベリーが余っていた、というのもあったが、このレシピを提案した一番の理由は単純明快。
贈る相手がシルヴィス。当然、面白くはない。
いやもう、これは少しくらい八つ当たりしても許されるだろう、と、敢えて甘くないレシピを提案してみた。
……のだけれども。
「うん、いいんじゃない?」
出来上がったトルテは実に甘そうだった。下にはカスタードクリーム、上に乗ったベリー全体は、艶出しのための透明なゼリーで固められ、その上から粉砂糖が雪のように振りかけられている。
いや勿論、僕もきちんと味見をしている。だから甘さは上品なものだったが、かなりベリーの酸っぱさが抑えられてしまっているはずだ。
──つまんないなあ。少しくらい嫌がらせしてやろうと思ったのに
あのシルヴィスが、トルテの酸っぱさで顔をしかめる姿を想像していた僕は、ややがっかりした。しかし本当に安堵した様子で僕に頭を下げた少女を前にしては、何も言えない。元々協力するという話だったのだし、これが正しい姿なのは確かだ。
「ユンファス、本当にありがとうございました」
「どういたしまして」
僕はにっこりと笑って、それから、
「片付けはしといてあげるから、姫は出来たてのうちに早く持っていきなよ」
と、いかにも優しげにそう言った。
……もっとも、
「はい!」
浮足立って二階へ向かう少女の後ろ姿をにこやかに見送りながら、僕は脳裏でシルヴィスの顔面に、焼き上がったばかりのトルテを叩き付けていたのだけれど。
***
少女の伺うような声がドア越しに聞こえたのは、切れたインクに顔をしかめ、ペンを机に投げ出した頃だった。
「シルヴィス、いますか?」
「はい」
あまり深く考えずに返事をしてから、今の声が誰かを想起して、違和感を覚える。
「……姫?」
この家に女性は一人しかいない。だから間違いなくこの声は彼女のものだ。
……だが、何故こんな時刻に? 夕食の時間にはまだ早いはずだ。
不可解に思いながらも扉に歩み寄ってノブをひねる。するとやはり、つまらないほど想像通りの少女がそこにいた。
「貴女が訪ねてくるなんて珍しい」
──ただ一点を除いては。
「……一体何を企んでいるのですか?」
そう言ったのは、彼女の手元に焼きたてであろうトルテを乗せた盆があったからだ。いい香りのするそれは、この状況から考えるに恐らく彼女が焼いたのだろう。
「企むなんて、そんなことは……」
と言いかけてから少女は何事かに思い至ったのか、判りやすく視線を彷徨わせた。
……いっそ笑いたくなるほど嘘のつけないひとだ。事実がどうであったにせよ、「企んでなんかいません!」と、いつものように言い返せばいいものを。
「まぁいいでしょう。それで、菓子など持って何の用ですか?」
追及しても、どうせしどろもどろになるだけだろうと容易に推測できたため、話題を転換する。すると、
「シルヴィスが今日誕生日だと聞いて、お祝いの気持ちを込めて作ったんです。よかったら、食べてもらえませんか?」
……今。
なんて?
やや思考が停止する。
何を言われたのかが、理解できなかった。
「……これを、わたくしに?」
「あ、はい」
特に含むところなく彼女は頷く。それに対して、自分でも存外にきついと思える口調で、
「何故ですか」
まるで詰問するかのような声色に、少女は少し困った様子で説明を始めた。
「えっと、妖精には馴染みがないかもしれませんが、人間には誕生日を祝う習慣が、」
「そんなことは存じております。わたくしが訊きたいのはそういうことではありません」
早口にそう切り返すと、少女は今度こそ心底困惑した表情になった。
「じゃあ、どういう……?」
首を傾げる彼女に、何と言ったものかわからず、一瞬言葉に詰まる。
不思議なのだ。……どうして、彼女が。
結局、やや躊躇いながらも事実を伝えることになる。
「……知らないのです」
その告白は、思いのほか掠れた声となった。
「え?」
当然少女は、私の言葉の意図をはかりかねたようだった。無理もない。
わからない、とばかりに声を零す彼女に対して、
「ですから、誕生日など知りません。自分ですら知らないことを、どうして貴女が知っているというのですか」
矢継ぎ早にそう言うと、少女は予想外だったのだろう、眼を見開いた。
「……誕生日を知らないんですか?」
知るはずがない。
妖精は基本的に自分の誕生日など記憶していない。なぜならそんなものに価値などないからだ。
自分たちは道具。人間の世界を豊かにするためだけに神が生み出した歯車のひとつ。
そんな、ただの歯車の生まれた日に何の意味があるというのか。ただの道具が作られた日を、誰もわざわざ覚えたりなどしないだろう。
意味があるとされるのは、妖精の王の生誕だけだ。妖精の王は、神に選抜される特別な存在。妖精王の誕生を、これからも妖精の存在を許す、という神の意志だと考える妖精たちにとって、妖精王の生誕日は、神への感謝を示す日だった。
だが、それ以外に妖精の生まれた日など祝われる理由がないのだ。
「えっと、……」
少女は明らかに反応に困っている様子だった。
だが困っているのはこちらも同じだ。彼女は一体何を以てそんなことを言いだしたのだろう。
「すみません、私の勘違いだったみたいです」
少女は、眉尻を下げてそう謝罪した。
──別に謝ってほしいわけではない。ただ、意味が知りたかっただけで。
そこで、思い至る。
……これは、キリティアの仕業か?
ルーヴァスも、彼女と親交を深めて欲しいと言ってはいた。だが彼は軽々しく嘘をついたり、知らないことを適当に吹聴するような性格ではない。
それならばそういったことで常習犯のユンファスかとも思ったが、同じく妖精の彼が、誕生日が云々などと言い出すとは考えにくい。それは他の妖精も同じだ。
そうなると、自分のことで情報をばらまこうとする人物など、キリティアしか──クファルスやサファニアとはそれなりに話す仲だが、そもそも少女とは殆ど関わりがないはずだ──思い当たる人物がいない。精霊であるあれは、我々よりも人間に関する見識が深い。……それにしたって何故誕生日などと、彼自身も知らないようなものを選んだのかは知らないが。
──……あのバカ、勝手に何してくれているんですか
一発ぶちこむか、と考えたときだった。
「でも、せっかくお祝いに作ってきたので、お菓子だけでも食べてもらえませんか?」
少女は所在なげなトルテをこちらに差し出したまま、申し訳なさそうに聞いてきた。
それに眉根を寄せて、
「……貴女には、わたくしを祝う理由などないでしょう」
と零すと、彼女は首を傾げる。
「今までわたくしは貴女に対して、明らかに不愉快な言動ばかりしてきたと思いますが?」
少女はぱちぱちと瞬きをしてから、少し笑った。
「そんなの、今更ですよ。確かにシルヴィスはいつも毒舌で物騒ですけど、優しいところもあるって知ってますから」
……嘘だ。
自分は優しくなどない。
優しくなどしていない。
出会ってすぐに銃口を突き付けた。顔を合わせれば嫌味を言い、信用していないと全面的に意思表示をしてきたつもりだ。それなのに何故、優しいなどと。
「ほら、私の怪我を治してくれたり……落ち込んだときには洗濯を手伝いに来てくれたりしましたよね」
……そういえば、確かにそんなこともあった。あったが。
別にあれは、優しいとかではなくて。
ただ、なんとなく──
その“なんとなく”の意味が自分でも理解できず、判然としない心情に苛立ちを覚える。
「……ああ、思い出したら苛々してきました。そうです、わざわざわたくしが時間を作って差し上げたというのに、よくも無碍に断ってくださいましたね」
八つ当たりでそうぶつけると、彼女は想定外にも素直に頭を下げた。そして、
「あのときはすみませんでした。私の勘違いでなければ、たぶん、心配……してくれたんですよね?」
「だっ、誰が貴女の心配など……!」
何を言うのだ。
人間の心配など、誰がするか。
貴女の心配など、自分がするはずがない。そんなはずがない。
「自惚れるのも大概にして頂けますか」
わたくしが貴女を心配などと、随分とおかしなことを言うのですね。おめでたいことです。
そう言おうとしたが、少女の発した言葉のせいで一瞬、自分の表情が崩れたような気がした。それを悟られまいと思い切り顔をそむけると、少女の方からくすくすという微かな笑い声と、
「耳は口ほどに物を言う……」
と呟く声が聞こえたので、
「何かおっしゃいましたか」
と、貼りつけた笑顔で彼女の方へ向き直る。
「余計なことを考えているようなら、今すぐ頭に風穴を開けて差し上げますが?」
腰のホルダーに差した拳銃に手をやるそぶりを見せると、少女はぶんぶんと大きく首を振った。
「いえいえ、何も考えてません!! ……それで、あの、お菓子は食べてもらえるんでしょうか?」
否定の言葉を発していた時から一転、少女の表情は不安そうに翳りを見せた。
もう一度手元のトルテをきちんと見る。
これは、ヴァルトベリートルテか。
見ただけでもわかった、それなりに手間を掛けたのだろう。素人が慣れないものを作ったのだろうからやや歪なところはあったが、いずれにしても適当に作れるような代物ではない。
「……いいでしょう。貴女が作ったとはいえ、菓子に罪はありませんからね」
立ちながら食すのもマナーが悪いとは思ったが、部屋に彼女を入れる気もせず、かと言ってこのために一階へ降りるのも複雑で、仕方なくそこで完食することになる。最後の一切れを食し終えたころ、ハンカチで口元を拭うと、
「ご馳走様でした。……まぁ、悪くはない、ですね」
その感想に、少女は目を輝かせた。
「本当ですか!?」
ええ、美味しかったです。
そう言いそうになって慌てて口を噤む。
……いや、色々と未熟な点はあった。だから、美味しいというのは、違うはずだ。例えば……
「良かった……お口に合って何よりです」
少女は心からの安堵を見せるようにゆっくり吐息をついた。それをそのまま認めるのも何だか癪で、
「ですが、まだまだ美味と言うには程遠い」
と付け足す。例えば、そう。
「ベリーの酸味が強すぎて甘さが負けています。これでは真のヴァルトベリートルテとは言えませんね」
別段そこまで甘さを強調せずともよいのだが、いかにもそれらしく伝えると、彼女は酷く落胆した表情になった。
「そう、ですか……」
それから苦く笑った彼女に──これは自嘲の笑みだろうか──、強く言い過ぎたと気づき、
「そ、そこまで落ち込むようなことは……。仕方ありませんね、今度特別に手本を見せて差し上げましょう」
と言葉を掛けると、少女の笑顔が固まった。それから、非常によそよそしい笑みを口元に結んで、
「え、それは別に遠慮します……」
……何だ、その返答は。
まるでそうなったら迷惑だとでも言いたげな、あるいは絶対ろくなことにならない、と如実に語る顔に苛立ちを覚え、
「……貴女、わたくしの気遣いをまた断ると? いい根性です。タルトのお礼に鉛弾をご馳走いたしましょう。何発お召し上がりで?」
笑顔でそう問うと、少女の表情が凍り付いた。そして滅茶苦茶に手を振り回しながら愛想笑いを浮かべ、勢い任せに叫ぶ。
「一発も要らないですから!! 分かりました、ご教授よろしくお願いいたします!!」
「よろしいでしょう。せいぜい頑張りなさい」
少女はその時を想像したのかげんなりとした様子を見せたが、何故だかそれには苛立ちを覚えなかった。むしろ、どちらかと言えば機嫌は良かったというべきだろう。
……それが何故なのかわからないのが、やはり不愉快なのだが。
そんなことをつらつらと考えていた時、少女が思い出したように、
「あ、言うのを忘れていました」
今度は、何だろうか。
無駄話なら付き合いませんよ、と言いかけたそのとき。
「生まれて来てくれてありがとうございます、シルヴィス」
──思わず、息を呑んだ。
それは。
その言葉は。
まるで、自分という妖精が存在する事実を、許すかのような。
生きていていいのだと。
間違っていない、罪はないのだと。
ここに、いていいのだと。
まるで、そんな意味まで持つかのようで。
適当な慰めの言葉より、安易な激励より、無責任な叱咤より。
自分を、安堵させて。
「貴女というひとは……本当に莫迦で能天気ですね。何も知らないくせに……」
顔をそむける。
……視界が、水を垂らした水彩画のように滲んでいた。
そんな言葉を、軽々しく伝えないで欲しい。
そんな言葉を、当たり前のように口にしないで欲しい。
貴女は知らないじゃないか。
この身がいかに穢れているか。
この存在がいかに厚顔無恥か。
貴女とはまるで違う世界で生きてきたのだと、貴女は知らないじゃないか。
何も知らないのに、この穢れた命そのものを慈しむような言葉を、どうか与えないでほしい。
「……そうですよね」
少女の言葉で我に返ったのは、きっと自分の発言から数秒も経っていなかったころだろう。
「出過ぎた真似をしてすみませんでした」
少女が、頭を下げた。
さら、と栗色の髪が揺れて、彼女の肩から滑り落ちる。その姿はいつもより小さく見えた。
「……失礼します」
そう言ってこちらに背を向けた彼女の腕を、
「待ちなさい!」
何故か、反射的に掴んでいた。
振り返る彼女に、
「まだ話は終わっておりません。勝手に判断しないでください」
「え……」
少女の瞳は、不安そうに揺れていた。
……ああ。
これは、怯えさせたのか。また。
きまりの悪さを覚えつつ、しかし掴んだ腕は放さずに、とにかく何か言わなければと唇を開く。
「まず、わたくしは、その……貴女が思っているほど、善良でも親切でもありません。人間など大嫌いです」
言葉は、思ったほどストレートに出てこなかった。遠回しな物言いに、少女は暗い顔で頷く。
「……はい」
何と言うべきだ、これは。何と言ったらいい。
何と言えば、貴女は怯えないでこちらを見るのか。
「そのわたくしが、例え好物とはいえ、嫌いな者から食べ物を差し出されて、素直に食べるとお思いですか?」
「……はい?」
呆けたように首を傾げる察しの悪い少女に、
「ですから!」
苛立ちも隠せずに声を荒げた。
「……ですから! 貴女のことは、それほど嫌いではない、と言っているんです!」
「……、」
しばらくの間、少女はぽかんとこちらを見ていた。
その間の抜けた顔のせいか、ひどく居心地が悪い。
少女は大きく見開いた双眸でこちらを見つめていたが、やがて綻ぶように、笑った。
「ありがとう、ございます」
……何だ。
貴女はそんな風にも笑えるのか。
そんなことを考えてから、少女の言葉に対して答えあぐね、ようやく出てきたのは、
「……礼を言われるようなことはしておりません。……むしろ、こちらの方が……」
などと、もごもごと籠ったいかにも頭の悪そうな返答だった。
……何をしているのだろう、自分は。
「え? すみません、途中からよく聴こえな」
邪気のない少女の態度にやや腹が立ち、
「何も言っておりません!」
と乱暴に答えてから気付いた。
自分が握った少女の腕。そこが、酷く赤くなっていることに。
「……っ、失礼」
慌てて手を離すと、少女はきょとんとする。しかし、自身の腕を見て、納得した様子を見せた。
「痕が……。痛みますか?」
問いかけるも、こういった状況下の彼女から、素直な返答が返ってくるなどと思わない方がいいだろう。以前、手から血を流したまま「大丈夫」などと言っていた少女だ。
「まぁ、それなりには」
意外にも素直に答えた……と驚いた次の瞬間、
「でもこれくらい、ほっとけばそのうち治るので大丈夫です」
……半眼になる。予期していたこととはいえ、また「大丈夫」。一体、何に対する「大丈夫」なのだ。そんなに腕を赤くしているのに。
耐えられない痛みじゃないから? 死なないから? 心配を掛けたくないから?
不器用なこのひとの考えそうなことだ。
そんなもの。
何一つとして、「大丈夫」じゃない。
――まったく、一瞬でも、「素直になったのか」という考えが過ぎった自分が馬鹿みたいだ。
「何が大丈夫なものですか。前回といい、貴女の言うその類の言葉は全く信用できません」
と答えるも、腕を赤くしたのは紛れもなく握りしめた自分であり、それを非難するのは明らかにお門違いで。
先ほどから馬鹿のようにおかしな言動ばかりする自分が厭わしくて、この件についてはもう口を出さないことに決めた。
「……腕を出してください」
少女は素直に赤くなった腕をこちらへ差し出した。それに、できるかぎり柔らかくその腕をとり、赤い箇所へ吐息が触れるほど唇を寄せる。
「──」
その呟きが終わらないうちに、彼女の腕から──痛々しく赤くなった箇所から──金色の光があふれ出す。そしてそれが消える頃には、痛々しげな痕はすっかり消え去っていた。
「……ありがとうございます。相変わらず、すごいですね」
少女は眼を見張って、自分の腕をまじまじと見つめる。そこに赤い痕はもうない。
「この程度、別にすごくも何ともありません」
そうだ。これは別にすごいことなどではない。
自分はルーヴァスのようなまともな妖精とは違う。
だが無論、それを少女に告げる気もしない。卑屈な考えを誤魔化すように、彼女へ向かって無愛想に手を差し出した。
「それより、そのお盆を渡しなさい」
ぶっきらぼうな提案に、少女は、
「は?」
「鈍いひとですね。……皿くらい洗って差し上げますから、貴女は部屋へすっ込んでなさい、と言っているのです」
酷くきつくなる声音に、しかし今度は少女が怯えることはなかった。ただ戸惑ったように、
「え、でも」
「いいから言われた通りにすればいいんです。菓子作りなんて慣れないことをして、疲労で皿でも割られたら堪りませんからね」
別にこの少女が皿を割るなんて考えてもいなかったが、口はぺらぺらと淀みなく言葉を連ねる。
少女はしばしぽかんとこちらを見ていたが、やがてそっと盆を差し出してきた。それを引ったくると、少女は堪えきれなかったように少し笑った。
「では、お言葉に甘えて、部屋で休ませてもらいますね」
「無駄口を叩いている暇があったら、さっさと行動なさい」
「……はい」
少女の口許に笑みが浮かんでいるのを、見逃していたわけではない。しかしそれを問い詰める気もせず、苛立ちながらも不思議なことに嫌ではなく、何とも複雑な心持ちになりながら、彼女に続いて一階へと歩を進める。
少女が地下へ向かう背中を見送ってから、台所に向かおうとしたとき、突如顔面に冷水が浴びせられた。
「あはは、水も滴る良い男って感じ? 良かったねぇ、お祝いしてもらえて?」
聞こえてきたのは、完全に予想していた人物の声だった。
「……ほぅ?」
にっこりと、笑う。
先程までの不可思議な苛立ちから一転、明確な敵意で思考回路が支配される。
──殺しても、いいですかね?
***
声だけとはいえ全てのいきさつを聞いていたわたしは、おそらく少女が自室に戻ったのであろうドアの音を確認して、ひとつ深呼吸をした。
彼女が話し掛けてきた時に、落ち着いて対応できるように。ゆっくりと息を吸って、吐く。
直後、鏡面が揺らいだ。そして少女の顔が鏡に映る。
わたしはそれに、微笑んだ。そして、
「上手くいったようで、ようございました。お嬢様」
そう言った。
あなたの努力が報われて。
あなたの思いが伝わって。
本当に良かったと、そう思っているように。
……内心、彼女の祝福を受け取った妖精に醜い感情を覚えながらも、まるで何てことはないように、心底安堵したというように、わたしは微笑んでそう言った。
……笑顔は、失敗していなかっただろうか。彼女に、気づかれていないだろうか。
わたしはこんなにも醜いと。そう、気づかれてしまって、いないだろうか。
無論、焦燥を覚える私の気持ちなど知らない少女は、
『リオリムのおかげだよ。ありがとう』
笑って、そう返す。
それが、心からの言葉だとわかって、わたしは自分が悲しくなる。
……浅ましい。
まるで、あの男と同じだ。
心から彼女と向き合うことができていない。彼女の喜びを自分のように喜んで、彼女の悲しみを自分のように悲しむ。
そんな簡単なことすら、わたしにはできない。
「いえ。わたしにできたのは些細な提案のみ」
そう。
「得られた結果は、すべてお嬢様の努力の賜物でございます」
自分は、結局、何もできていない。
何の助けも、できていない。
……わたしは何のために、ここにいるのだろう。
『そんなことないよ。リオリムがいてくれなかったら、今頃まだ途方に暮れてたと思うし』
「……そうでしょうか」
……あなたなら。
わたしがいなくても、きっと大丈夫だ。
わたしがいなくなっても、そもそもわたしと出会ってすらいなくても、きっとあなたなら生きていける。妖精たちと打ち解けたのも、結局はすべて彼女の力だった。
「わたしがおらずとも、お嬢様の大切な方々がきっと、」
いや、必ず。
「力になってくれたはずですよ」
わたしはそう言いながら、己の卑屈さを心の中で自嘲する。
……まるで、子供のようだ。
無い物ねだりをして。きっと今の言葉だって、言うべきではなかった。
わたしはただの道具として、彼女の便利な鏡として、ここにあるべきなのに。
その為だけに、ここにいることを許されているのに。
自分は何を、しているのだろう。
すると。
『その言い方。リオリムだって、』
彼女が、笑って、言った。
『私の大切なひとなんだからね?』
「──っ」
どうして、そんなことを言う。
どうして、そんな言葉をわたしに。
ただの道具だ、あなたが生き残るために道化師が用意した駒だ、それなのにどうしてあなたはそんな風に。
向き合ってくれるのか。
視界に涙が滲んだ。
「……身に余る光栄でございます」
あなたのその言葉を、胸に刻もう。
あなたの助けにはなれない、あなたの定めを肩代わりすることもできない、わたしは役立たずだ。
だがそんな道具に、あなたがありがとうと言ってくれた。
それだけで、わたしには信じられないほど幸福なはずなのだ。
だから忘れない。
あなたの感謝の言葉を。
わたしに名前をくれたあなたの、あたたかなその言葉を。
わたしは、震える唇を、ゆっくりと笑みの形に結ぶ。
『リオリムはいつも謙虚すぎ……』
そう彼女が言おうとしたときだった。
『……! ……、……!』
上の階からだろう、騒々しい声と音が響くのが、鏡越しにもわかった。
『ん?』
少女も、不思議そうに天井を見上げる。
『上で何かあったのかな』
「……ああ、」
想像がついていないのだろう。彼女が訝しげに呟く。
大方、妖精が騒いでいるのだろう。騒いでいるのが誰かも想像がつく。あの無遠慮な妖精と、軽妙な妖精だ。
……まったく、騒々しい。
片方はともかく、休めと言ったのはどこの誰だったか。気遣いのできない妖精だ。
いいや、それよりも。
今この場で、彼女をあの二人のもとへ向かわせるのは。
嫌だ、と思った。
──行かないでください
そう、言葉にしそうになって、はっと我に返る。
また、嫉妬。
一体何度妬ましいと思えばわたしは気が済むのだ。何度不毛に僻みを覚えれば、わたしは。
けれど。
けれど、生まれたことへの祝福、それに加えて更には下らない喧嘩の仲裁など、不公平ではないか。あなたたちはもう十二分に彼女と接しているではないか。
わたしは祝ってなど、もらえないのに。
あんな妖精たちより、よほどわたしの方が彼女を案じている、平穏であれと望んでいる、幸せを願っている、それでもわたしはその手に触れることすら許されない。
わたしは、小さく吐息をついて微笑んだ。
「おそらく、お嬢様がお気を煩わす必要のないことかと」
『何があったか分かるの、リオリム?』
不思議そうに問いかけてくる少女を見つめる。
──喧嘩のことを話したら、この人はきっと、あの妖精たちの元へ行ってしまう気がする。
それなら、何も言わない方がいい。
「ええ」
もしかしたら。
喧嘩の仲裁に入ることは、あの道化師の言う「親密度を上げる」行為へ繋がるのかもしれない。わたしが今それを潰すべきではないのかもしれない。
わたしは、あなたの背を押さなければならないはずで。
……でも。
「大したことではございませんので」
わたしは、また、笑う。
嘘を貼り付けて、あなたは何も案じることはないと微笑む。
「お嬢様はどうぞお休みください」
少女は私の言葉を疑いもせずに受けとる。
『うーん……リオリムがそう言うなら、大丈夫だよね』
その姿に、酷い罪悪感と、そして薄暗い安堵が浮かぶ。
そして紛れもなく安堵している自分に、自己嫌悪の念がよぎる。
『じゃあちょっとだけ仮眠するから、1時間したら起こして……』
少女が、そう言って鏡を枕元に置く。そうすると、鏡の鏡面が揺らぐ。わたしは鏡の向こうの景色が消える前に、
「かしこまりました。ごゆるりとお休みくださいませ」
そう告げた。
ふわりと消えた鏡の景色に、わたしはため息をついた。
……上手く、取り繕えたのだろうか。
その時だった。
「やほー、リオリム君。元気?」
事の発端とも言える、忌々しい元凶の声が響き、わたしは大袈裟にため息をついた。
「……お嬢様に、嘘をついたのですか?」
挨拶へろくに返事もせず、わたしが発した第一声はそれだった。
「さぁ? 嘘かもしれないし、嘘じゃないかもしれない。でも誰もわからないことだよね。だって当の本人も、その周囲の妖精も彼の誕生日なんて知らないんだから」
「……」
人を食ったような返答は、わたしを苛つかせるだけだった。
この人ならざるモノが、まともな会話などできるはずはないと、よく知っていたのに、何を聞いているのか。
「……お願いですから、お嬢様を困らせるのも大概にしてください。あの方は特別強い方ではない。普通に泣いて笑って、当たり前を望んでいるだけの、優しくて哀れな、ただの少女です」
わたしの主張と懇願は、しかしさして道化師の心を動かしはしなかった。ただ面白そうにこちらを眺め、
「はは、板についてきたなあ。本物の執事みたいだね」
と、言う。そして、
「でも、嬉しかったんでしょ? あの子に大切だって言ってもらえて。本当ならそれは君が貰う言葉じゃないのに、当たり前のようにその言葉をもらえて、紛れもなく喜んでるでしょ?」
「……っ、」
ひゅっという音が、喉の奥で鳴る。さぁっと血の気が引いた。それを見た道化師はおかしそうに笑う。
「ふ、はは、図星。もしかしたらあの子の傍にずっといられるんじゃないかって、どこかで期待してるんでしょ?」
「ちがう」
「空っぽでも、これは自分だって言い聞かせてるんでしょ? その知識も記憶も想いも何もかもこのままでいられたら良いって?」
「ちがう」
「本当は自分が彼女に選んでもらえる未来があるんじゃないかって、そんな希望を持ってるんでしょ?」
「ちがう!!」
悲鳴のように叫んだ声は、終わりのない闇の中、嫌によく響き渡った。
静寂の中に、自分の荒い呼吸だけが響く。それに、道化師はにやにやと癇に障る笑みを浮かべてこちらを見ている。
「……あなたは、悪魔だ」
「あはは、悪魔じゃあないと思うんだけど。恋のキューピッドってやつ?」
「あなたがいなければこんなことにはならなかった」
「そんなことないと思うけどなあ」
「あなたに、出会わなければ良かった」
「でもそれなら、あの子には永遠に会えなかった」
わたしは返された正論に、もうなにも言えなかった。
こんなにも虚ろな存在で、どうして彼女の前にいるのだろう。
心なんかなければよかった。
「可哀想な子」
道化師の嘲笑うような声が響き、彼は音も立てずに消える。
後に残ったのは、虚ろで醜い自分と、痛いほどの静寂、そして終わりのない闇だけだった。
みなさまお久しぶりでございます、天音です。
さて、今回書きおろした「あなたの、特別な日――another view――」ですが、お楽しみいただけましたでしょうか。
二次創作として、そして僕の誕生日プレゼントとして書きおろしてもらった「あなたの、特別な日」。
明らかに読者では回収できない伏線を大量に張っていて、いやぁこれ僕は事情が分かっているので楽しいんですけど、普通の読者が単品で読んだら消化不良ですね?と思いつつ楽しませてもらいました。
そして翠さまに申し上げました。
「公開してくださいませんか」と。
まぁ、渋られましたけど。
そして、ふと思い立ったのです。
――裏話を書いたら、どうなるだろう。
元々、裏話を書くのは好きだったのですが、よもや他者の張った伏線を自身で解いていくことになろうとは予想していませんでした。
しかし裏話をちらつかせるとですね、渋っていた翠さまも……ええ……皆までは言いませんが。
そして、そのうえで、非常に大きな壁となった問題がありました。
元々こちらの作品は、「シルヴィスの誕生日」をコンセプトとしていたのですが、それは当然、シルヴィスの「正しい誕生日」でした。
しかし本編に現在明記されていないものの、妖精たちの「正確な誕生日」はわからないのが普通。
さて、これは二次創作していただいたにもかかわらず伝えるべきなのか?と。
ご本人にそれについてお伝えしたところ、
「そんな隠し設定わかるかーい」
で し ょ う ね !
むしろわかっていたら恐怖ですよ。
そんなわけで、かなり無茶な変更をお願いしたにもかかわらず、見事に綺麗にまとめてくださいました。翠さま、本当にありがとうございます。
おかげで僕も滅茶苦茶に楽しみました。
元々はもっと明るい裏話を書く予定でした。
しかし趣味全開で書いているうちに、うん……何ていうかこう、闇をかき集めて煮詰めて突き落としてかきまぜた挙句に結晶だけ取り出したみたいなことになって、本当に申し訳ないです。いや、こんな予定では……
しかし何にしても、今まで割合気になるというお声の多かった妖精やリオリムの声をお届けできて、僕は楽しかったです。僕はね。
まあ、そんなこんなで、散文ではございますが、このあたりで今回は失礼しようかなと思います。
それでは、「あなたの、特別な日」を書きおろしてくださった翠さま、それからこちらまで読んでくださっているあなたに、最大の感謝を。
ありがとうございました!