第1話「はや我が気概萎れたり」
大阪市の北に接する豊中市は、のちに天才実業家とも称される経営者を擁した鉄道会社が、沿線に対する先進的な宅地開発により関西有数のベットタウンへと成長を遂げる。
高度経済成長期の大規模ニュータウン建設によって、その傾向にはさらに拍車が掛かっていった。近年、その団地群地域の高齢化が懸案となっているが、なおも大阪府下五指に入る人口を誇る。兵庫県との県境には空港を擁し、京阪神の商工業にも大きな地位を占めている。
しかしこの街は、日本の現代野球史において、極めて重要な土地としても知られている。
大正4年8月、この地において、第1回全国中等学校優勝野球大会が催された。その後、兵庫県西宮市に「東洋一のマンモス球場」として建設された甲子園球場に舞台を移し、1世紀ばかりの歴史を紡いでいくことになる、全国高等学校野球選手権大会の最初の一歩が標された場所である。
そんな歴史の端緒を感じられる街の公園内にある球場では、グラウンドに降りこんできた桜の花びらを地面から巻き上げるように、若人たちが躍動感あふれるプレーを見せていた。
さわやかなそよ風吹く麗らかな春の日、その少年はひどく落胆した。
数ヶ月前、胸を張り自信に満ち溢れた表情を携え、中学を卒業した後の夢を語っていた彼は、苦々しく右中間への飛球がライトのミットに収まったのを確認し、地面に目線を落としながらホームベースの方へと挨拶の為に並びに向かった。
多くの高校野球ファンが球児たちの一挙手一投足、懸命なプレーと共に、その試合の顛末を見届けた。
3対11。
9回まではたどり着いた。そこでダメを押されたのが手痛い結びであるのは間違いない。それでも1年生しかいない新設チームが、見応えある試合を強豪校とやりあった、紛れもない事実がそこにあった。なにせ、対戦相手は大阪の強豪・履統社高校。3点をもぎ取ることができた事を誇るべきとも言えるだろう。
しかし、ホームベース一塁側に並んだ9人の先頭にいる少年、浜風龍太朗からすれば、想定外の乱戦であった。140キロのストレートと天下一品のフォークボールをあれよあれよと言う間に攻略され、4回5失点を喫し、大いに自信を削がれてしまった。
共に戦った仲間たちも、疲れと悔しさで表情は晴れない。
高校野球の壁をまざまざと見せつけられ、翔聖学園高校野球部、創部最初の春季大阪大会初戦は、幕を下ろした。
―――――――――――――
「おい、ピッチャーいるか?」
今回の出場メンバーが、初めて一堂に会したのは一週間前のことである。
監督を除いた野球部入部予定のメンバーがグラウンドへと集まってきた頃、一番最後にやってきた強面の男子生徒が、一塁ベンチ側からぬうっと出てくると、ただそれだけ発した。
「確か……鬼頭くん、だっけ。2組の」
グラウンドの面々が訝しげに大男を見つめる中、メガネの右レンズを親指で直した瓦町学が尋ねる。
「あぁ。何で知ってんだ?」
「うっすらとはだけど聞いてたんだ。体格のいい強打者のキャッチャーがこの地域にいるって」
学の言葉に、龍太朗は飛び上がるように喜んだ。
「おぉー、いたか俺のバッテリー相手! よかったーキャッチャー固まったら相当心づよ――」
「やめろ! 近づくな馴れ馴れしい!」
盛大な笑顔を浮かべ、肩をガシリと掴み、距離のつめ方を明らかに間違えた龍太朗を、鬼頭と名乗った少年は振り払う。
「俺はな、何としてでも野球を続けたいんだ。だからこそ結果がほしい。野球やれればそれでいいって言うなら、俺はお前の球は受けんぞ」
あまりにも険しい、怒りの表情で振り払われた龍太朗は、あまりのことに声が裏返る。
「は、はえ? そりゃどういう言い草や?」
「そうだよ! 僕らだって甲子園を目指すために野球をやるんだと思って――」
「この1年だ」
長い言い合いになりそうだと察知して、横槍を出そうとした光月透の言葉を、しかし鬼頭は遮る。
「悪いが、俺は本気のヤツしか認めてられん。『この夏あるいは春の選抜、お前がレギュラーで甲子園に行けなけりゃ、野球をやめろ』って、親父に言われてる」
鬼頭の、悔しさも内包した表情で訴える口ぶりに、龍太朗は「えぇ?」と困惑の言葉を吐き出す。
「親にそこまで言われるもんか? んなら、何でここにおる? もっと名門校行ったらええやないか」
ずいぶん無理解な親もいるものだと驚く龍太朗は、当然のように沸いた疑問を続けた。
「名の知れたとこの資料は全部焼かれちまった。よっぽどまでに野球は続けさせたくないらしい」
突拍子のない発言に一同呆然と立ち尽くす。龍太朗は口を半開きにさせて、眉を顰めている。
「無茶なことぐらい嫌ってほど分かってる。でも、俺はこの1年以内で、なんとしてもケリを付けなきゃならん」
「籠の中の鳥にでもしたいんかいな……。野球続けたいからこその、最後の反抗か。やから、ここか。公立校でもなく、新設校のここに」
「あぁ。行けないことがどう見たって明らかな既存校より、新設のほうがまだ光明はあるんじゃないかと俺は踏んだ。だが、このメンツはどうなんだろうな」
そんな言葉を吐きつつ、呆れたような表情で、鬼頭は周囲を見回した。
会話を遮ろうとしてきた華奢な少年、やたらと小柄な野球坊主、最初に話しかけてきたぽっちゃりメガネ、チャラ男、際立ったものを持っているようには見えない少年、背格好の大きなポニーテール女子に、元気さだけは有り余っていそうなベリーショート女子。男子勢は土汚れが微かに残る、着慣れた練習用ユニフォームを、女子のふたりはソフトボールからの転向組なのだろう、真新しいユニフォームに身を包んでいる。
その横合いにはマネージャー候補であろう、ショートカットの美少女と黒髪ロングの日本人形のような少女。はつらつとした笑顔を見せている腕まくり女子がその隣りに陣取る。
そして目の前には、体格だけは恵まれているが、距離感が分かっていない男。
これで甲子園を目指すなんて笑わせるのも大概にしろとでも言いたげな、半ば馬鹿にしたような表情で、彼らに冷徹な視線を配る。
よほどの自信家なのだろうかと、龍太朗は幾ばくかの憤りを覚え、右目の眉を二度引きつらせたが、納得させるにはこうするしかないと、一つ息を吐いてから鬼頭に提案した。
「そうまで不安なら俺の球見てくれんか? 少なくともそっちの期待には、ちぃとは応えてやれるかもしれん」
「ほう、望むところだ」
なんだかまずいことになった、という表情の一同をよそに、龍太朗は一度ベンチに入ってグローブを手に取り、マウンドへ戻った。鬼頭は自らの発言を言い切らぬうちに龍太朗から目線を外し、さっさとミットを携えホームベースの後方に陣取る。
若干の柔軟を終えると、練習球で軽く10球ほど、マウンドと一塁線の間で透とキャッチボールをした。「よっしゃ」と小さく呟くと鬼頭のほうに向き直り、ストレートを投げると伝えた。鬼頭は真ん中にミットを構える。
龍太朗は左手のグローブの先を腰に当て、右腕はダラリと下げる。投球動作を始めると、グラブを首の背まで持っていくワインドアップから、三塁方向を向いた後から両腕を顔の前へと下げていき、そこからまさしく弓を引くようなテイクバック、そしてオーバースローから押し込まれるようにして、鋭く白球が放たれた。
どこかでライフル銃でも撃たれたかような、衝撃音とも取れる、乾いたミットの音が耳に飛び込んでくる。
透は笑みをこぼしつつ頷く。学は受けたキャッチャーに目線を集中させている。ショートカットのマネージャー候補、美都野美里はいつも通り、その豪快なフォームに見惚れていた。チャラ男と評された陽浦勝輝は、「くぅー、痺れるぅ!」と上機嫌である。
そんなベンチそばの空気とは違い、白球を受けた張本人は戦慄にも似た感情を覚え、呆然とし、捕球体勢から固まっていた。
(なんだこいつ……。今までのヤツとは次元が違う!)
回転の効いた、鋭く飛び込んでくるボール。120キロ強のストレートなら打席で何度も見たことはある。その程度なら軽々と打ち返してきた。しかし、明らかに球速が、球の質が違う。左手が珍しく痛い。右打者の低めやや外よりに構えたミットへ捩りこんでくるような直球だった。
鬼頭の所属していたシニアチームは今まで、あまり目立ったエースのいない、打のチームだった。しかし、打撃だけでは試合を作り上げられない。それも祟って上位への食い込みはならなかった。
たった1球、そのストレートを受け止めた鬼頭の中で決心がついた。マスクをメットの上へ持っていくと、すっくと立ち上がる。
「鬼頭弘大だ。今のストレート、あんなのは初めてだ。見くびっていた自分が情けない。さっきまでの無礼な発言、申し訳なかった」
拍子抜けだった。学や透たち、女子勢も揃って「へ?」と言わんばかりの表情の中、弘大は頭を垂れる。快速球を見せ付けたマウンド上の球児は、その状況に滑稽さを覚えてしまい、思わず吹き出してしまった。
「イヤやなぁ気にすんなや、ええってことや。これからチームメイトやねんから、そこんとこよろしゅう頼むわ。俺は、浜風龍太朗や」
腰に手をやりつつ龍太朗が名を名乗った瞬間、弘大は闇の呪文でも耳にしてしまったかのようにゾワッと上体を起こし、マウンドへ向かながら捲くし立てた。
「なんでもっと早く言わなかった! お前の名前なら嫌というほど聞いたことがある。尊大な扱いすることもなかったのに」
「んなもん言われても聞かんかったやないか!」
そんなこんなで、ドタバタな門出となったチームではあるが、やはり態勢整えきれぬまま、試合の日を迎えてしまった。
練習試合を組む余裕もないタイミングでの初陣は、メンバーの力を見せる試金石ではあったものの、負け方が負け方であった。
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「俺が驚いてたあの球は、なんだったんだろうな」
帰りのバスの中で、弘大は龍太朗に原因があるような言い振りで、言葉をこぼした。
「そう言ってやるな。今日に関しては、負けたとしても文句を言い合わないって言っただろう」
弘大を諌めるように監督の深堀恒弘が割って入る。帰りのバスの車内の雰囲気は、一様に固く、暗いものだった。
龍太朗は先発として登板し、4回6失点で自責点4。一順目を1点で抑えたが、二順目に捉えられてしまった。打者としてホームランを放ちはしたものの、甘い球を除けば大概の球を捉えられず4打数1安打2三振と、なんともいえない結果に。
2番手で登板した勝輝は制球が定まらず、1イニング3四死球を与えてしまい、2失点。打撃では二塁打を放ったものの、得点につなげられず4打数1安打。
3番手は、サイドハンドのサウスポーである井ノ頭進一郎。勝輝が残したランナーがいる中、左打者が続く場面で登板。しかし、内野ゴロで1点。二塁打の後、連続四球とパスボールでもう1点を失ってしまった。打席でも快音なく、内野ゴロ4つで終わってしまう。
最後にマウンドへ立った透は、7回の2人目から四者連続三振を奪ったものの、最終回にスタンドへ2本叩き込まれてしまった。打撃では四球と三塁打で出塁するも、1得点が精一杯。登板した面々は、いまひとつピリッとしない内容で終わった。
「監督、俺悔しいです」
意気消沈した声で、龍太朗は伝えた。
「そうか。今のうちにそう思えたことをよかったと考えたほうがいい」
そう言いながら、深堀が後ろの席へと振り向いて目の当たりにしたのは、聞こえてきた声色とは一線を画した、険しい表情の龍太朗であった。
「浜風君、君のあのときの言葉は、本気だと受け取っていいね?」
真剣な顔で深堀が問うと、落としていた目線を上げつつ、一文字に結んでいた口から、少年は悔しさを跳ね除けるように、決意に満ちた声で言い切った。
「ええ、本気ですよ。甲子園最速出場、それが目標です」