5−5: 日記445
きよおわ たいせつなひなので 日記 てゆうじお せんせえにかいて もらいました
ぼくじやないぼくが のつたろけつとの うちあげおみました
すごかつた
ごごごごて すごかた
どかーんて すごかた
ぼくじやないぼくが せんちよおの うちゆうせんわ ちいさか、たけど それおうちゆうまで とどけるのに あんなにおおきな ロケトお つかうとわおもてなか、た
せんせえわ ちいさめの ロケトだけどねて い、てた も、とおおきい ロケトも あ、たんだけどね ふつうにつかうのわ あれくらいで だいじよおぶだからねて いてた
ぼくわ うちゆうせんお うちあげに あんなおおきな ロケトおつかうて おもてませんでしたて い、たら せんせえわ あのうちゆうせんだけお うちあげたんじや ないんだて おしえてくれた
いくつか うちゆうせんお うちあげしたん ですかて きいたら うちゆうせんわ きみの ふねだけだよ て おしえてくれた
じんこおええせえや うちゆうすてーしよんに も、てくのも の、てたかな て おしえてくれた
うちゆうせんお うちあげるついでにね て おしえてくれた
それから びよおいんのへやに もどた
きやりーせんせえわ うちゆうせんの せんちよおのよおすお しばらくみてるて せんせえが いてた
それで せんせえわ これでたいいんできる けど まだここにいてもいいよて い、た
せんちよおや うちゆうせんからの ほおこくが はいるときわ よんであげるよて い、た
ぼくわ そのときわ せんちよおとおはなし できるんですかて きいた
そしたら おはなしわ むずかしなあ て い、た
でも きみ ぼくのこと あての めせえじはあるかも しれないねて い、た
いしよに にゆういんしてる おともだちも いなくなちやたし たいいんしたいですて こたえた
わかたて せんせえわ い、て それじやあ かいしやにもどたりとかの てつづきおするねて い、た
ほんとのことお ゆうと このびよおいんおたいいん するのわ すこしさみしいです
とむせんせえときゃりーせんせえが おてがみお かいてくれたから は、ておきます
* * * *
山村 優太郎君へ
そして山村 優太郎君について
プロジェクト第一期の最後の一年とすこし、山村 優太郎君と過した。そこで記録にも書いていることではあるが、こちらにも書いておこうと思うことがある。もちろん、このような言い方は山村 優太郎君にとって、あるいはSAHテストでのSクラス記録者にとって失礼な部分もあるかもしれない。
まず、山村 優太郎君と過ごせたことはよかったと思う。Aクラス記録者と接っする機会は普段でも充分にあるが、Sクラス記録者とこのように接っする機会は、あまりないからだ。
これは、Sクラス記録者を特別な者として見ているからではない。もちろん、正直に言えば、山村 優太郎君やほかのSクラス記録者をプロジェクトに迎える際に、緊張や好奇心がなかったとは言えない。ドクター・サミュエル・ハワード、ドクター・アラン・ソーン、ドクター・スティーヴン・マケンジーの著作やメモから、事前にSクラスとはどういうことなのかを読んではいても、それでは知っていたと言うには不充分だった。だが、不充分だったとは、事務局のサボタージュを経たからこそ言えることかもしれない。
たとえば、山村 優太郎君はなんのために生きているのだろうか。後に振り返るなら、彼の人生は船長を生み出すためにあったとも言えるのかもしれない。だが、彼の人生はここをもって終るわけではない。
これを敷衍するなら、言い古された言葉に行き着く。「我々はどこから来て、どこに行くのか」 そして「我々は何者なのか」。
私たち、つまりすくなくともトム・ハーネルとキャリー・クランスにとっては、知りたいという衝動がとても重要だ。そして、山村 優太郎君もその点は似ている。彼にとっては、未知とは知りたいと思う対象である。それが叶うか否かは問題ではない。その衝動において、私たちと山村 優太郎君は似ている。
山村 優太郎君にとって、組織、つまりは彼が戻る会社において、彼がどこに位置するのかは問題ではないだろう。それは彼にとっての興味の範囲外のことがらだからだ。だが、彼の周囲のAクラス記録者は、そうでないことを彼に強いるかもしれない。不安があるとすれば、その点だろう。
というのも、Aクラス記録者は、その点において私たちとは異なるように思うからだ。なにより、上の二つの疑問について考えると、私たちにとってそれらは疑問ではないことに気づく。それらを問う余地もなく、それらの疑問そのものが私たちだからだ。だがAクラス記録者にとっては、あらためて問う必要があるという点において、そうではないのかもしれない。それは、たとえば組織のどこに属するかが重要であるように思える点にも現われているのだろう。そのような傾向が、そのような経験に基くものであるのか、それともそもそもそのような者であるからであるからなのかは、私たちには答えられない。ドクター・サミュエル・ハワード、ドクター・アラン・ソーン、ドクター・スティーヴン・マケンジーと議論する機会を得て、三人ともそもそもそのような者なのだという意見だと知ったが。
付け加えるなら、三人とも、SAHテストを厳密なものにするならば、Sクラス記録者とHクラス記録者の数ないし割合はもっと減るだろうと言っていた。社会からの要請に応じ、Sクラス記録者と知的障碍者とがおおむね同義になるように調整しているにすぎないとも言っていた。実際に、当初迎えたSクラス記録者の多くが、彼らが用意しているSAHテストの次のヴァージョンを基準にすればAクラス記録者となった。観察においても、SAHテストの理念からすればAクラスであろうと予想された結果でもあった。三人は、こうも言っていた。現在はAクラスに紛れている、SクラスやHクラスを記録する者もまだいるだろうとも。だが、私たちが見た結果から思うこともある。彼らが用意している次のヴァージョンは、採用されることはないだろう。
おそらく、Sクラス記録者とHクラス記録者は、異邦人なのだろう。すくなくとも私にとっては、そしてキャリー・クランスにとっても、この社会において私たちは異邦人であると認識している。
もしかしたらとも思う。私たちは滅びゆく種であるのかもしれない。ホモ・サピエンスが持ち得た可能性の一つが滅びるのか、あるいは他のホモ属から受け継いだ特徴の一つが滅びるだけなのか、それはわからない。すくなくとも数千年、それに抗ってきたのだから、滅びると決まったわけではないが。だが、滅びゆく種だとしても、そのままでいることはできない。これからはすこしなりともAクラス記録者の社会に目を向けなければならないだろう。人工知能や山村 優太郎君が生み出した船長のような存在の手助けをするためにも。
山村 優太郎君、君を通して得た洞察は、今後とも生き続けるだろう。
それとね、ゆうたろうくん。わたし、トム・ハーネルとキャリー・クランスは けっこんすることにしたよ。ふつうにいう けっこんとは ちがうかもしれない。しょうじきにいえば、わたし、トム・ハーネルは まえから キャリー・クランスのことが すきだった。でも、それは ふつうにいう すき とは、やはり ちがうかもしれない。かのじょとの ぎろんは たのしかったんだ。そのぎろんが、せんちょうを うみだした よういんの ひとつでもある。そして けっこんすることに なったのは きみたちの てだすけをするには、そのほうが べんりだろうと かんがえたからだ。きみは わたしたちの あいだを つなげる おおきな そんざいだ。トム・ハーネルと キャリー・クランスの あいだだけではない。Sクラスと Hクラスの あいだを つなげる そんざいでもある。きみに たすけが ひつようなら、わたしたちは それを おしまない。
おわりに なったけど、うちゅうせんの たびの ぶじを いっしょに いのろう。
トム・ハーネル
キャリー・クランス
「はくち」の設定資料です。
例のごとくgoogleドライブの表計算です。
https://docs.google.com/spreadsheets/d/13G3q4jLtJXfQDaj4OXcuKxGyg7uq26G5PNYwfcayvCI/edit?usp=sharing




