猫転生、思っていたのと何か違う
残業、残業、また残業。
デスクの上は書類だらけ。足元にあるゴミ箱にはからになった栄養ドリンクの空き瓶だらけだ。
「もう、嫌だ……」
静まり返ったオフィスに、私の声が響いた。ボソリと呟いただけなのに、深夜の他に誰もいないオフィスにその声は、思ったよりも大きく響いた。
入社三年目。ゴールデンウィークが明けたばかりの今日、今年の新卒は誰も出社しなかった。去年の新卒?とっくの昔にいなくなってる。多分、去年の今頃に。私の同期も、もう誰もこの会社になんて残っていない。みんなとっくの昔にいなくなっちゃった。
就職活動していた頃に、たくさんのお祈りメールをもらった。
『今回は、誠に残念ながら採用を見送らせていただきます。貴方様の今後のますますの発展をお祈り申し上げます』
そんなに祈らないでよ。祈るくらいなら採用してよ。たくさん祈られて、祈られるたびに心がパキポキと折れる音がして、小さくなってクシャクシャになった私を必要としてくれたのはこの会社だけだった。
だから。
もう少し、後少しだけ頑張ろうって思ってきたけど。
辞めていく人が、本当は羨ましかったけど。
辞める人が出るたびに、私にその仕事が上積みされていくのだけど。一日に14時間は仕事しているのだけれど。
だけど、頑張ってきたけど。
「もう、嫌だ……死にたい」
そう言って立ち上がった私は、床に転がっていた栄養ドリンクの空き瓶につまずいて、後頭部にガツンと痛みが走って、真っ暗闇に落ちていった。
暗くなっていく意識の中で、私は猫になりたいって思ってた。暖かい場所でのんびりとグルグルと喉を鳴らして可愛がられるのが仕事の猫なら幸せだろうなって。そう考えているうちに、頭の中まで真っ暗闇になっていった。
「にゃ?」
目の前を、大きな空き缶がゴロゴロと転がっていく。
ムズムズと追いかけていきたい気分になる。
「にゃ、にゃ、にゃ」
楽しい!
何これ、何これ!
面白い!
大きな空き缶に手を乗せるたびに、ゴロゴロと転がっていく。それだけのことが楽しくてたまらない。
そう思って空き缶を追いかけていると、ふいにタシッと太い足が空き缶を止めた。
「にゃ!?」
驚いて見上げると、濃い灰色をした大きな猫が私を見ていた。
見たことも無い大きな猫に驚いて、背中の毛を逆立てていると、その猫が低い声でうなった。
「ぶにゃああぁぁ」
(おまえ、新入りだな)
猫がしゃべった!?
キョロキョロと辺りを見回しても、周囲には他に生き物の姿は無かった。
「ぶにゃにゃにゃにゃ」
(ちっ、まだ右も左もわからねぇガキじゃねえか)
灰色の大きな猫はそう言って、パクリと私の襟首をくわえるとノシノシと歩き出した。
「みゃ!?」
ぶら~んとぶら下げられてようやく、私は自分が猫になっていることに気がついた。
(え、私。もしかしなくても猫になっちゃったの!?)
そこで、私はやっと人間だった私が、真夜中のオフィスで転んで死んだんだろうことに思い当たった。
(あ、私、あの時に死んじゃったのかな……死ぬ寸前に、猫になりたいって思ったから猫に生まれ変わったのかな)
思ったよりも動揺はなかった。
それよりも、もう働かなくてもいいんだっていう開放感がいっぱいだった。
だけども、それは大きな勘違いだった。
「ぶにゃああぁぁ」
(違うっ!! そこはもっと大きく伸びをする! 背中の曲線をもっと意識するんだ!!!)
「ぶにゃああぁぁ」
(こらっ! そんな仕草じゃダメだダメだダメだ!! こうするんだっ!)
「ぶにゃああぁぁ」
(目線が意識できてないっ! やり直し!!!!!)
一挙手一投足にいたるまで厳しい指導が飛ぶ。
うたた寝だって容赦なく叱責が飛ぶ。耳を時々はピクリと可愛らしく動かさなくてはいけない。
歩くときにシッポはどう揺らすべきなのか。
キャラクターだって四六時中作らないといけない。
ツンデレは基本として、たまに見せるデレの詳細なタイミング設定もレポート提出が義務付けられている。
猫として生きる。
それはいかに人間を支配するかにかかっている。
暴力で支配なんて、それ以上の暴力や数に負けてしまう。
そんなものに頼るようではまだまだだ。
人間を本能からメロメロにする。
食料として飼われるなどありえない。
ただその可愛らしさで頂点に立たなくてはならないのだ。
「にゃあん……」
(人間の会社員時代が楽に思える……)
「ぶにゃああぁぁ」
(当たり前だろ! お前、猫なめてんのかっ!!)
太い前足でてしっと頭を押さえつけられる。
「みいいい」
(いだだだだだ、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい)
ああ、かくも猫生が厳しいものだったとは。
猫転生、思っていたのと何か違う。