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夜――――。
昼か夜かもわからぬ暗闇の中で、やはり意識が撓むのは夜だからだろうと樹は思う。
どのくらい時間がたったのか、あとどのくらいこの闇の中で過ごせば日の本をあるけるのか、皆目検討がつかない。
規則正しくなる自分の腹時計を鑑みれば、おおよそ二日ほど経っているはずではあるが、果たしてそれを確かめる術がない。
いい加減見飽きた闇が眼前に広がっており、その果てのなさに嫌気がさした。
こんなところに長くいるといい加減気がおかしくなる。嗚呼早く日の本を歩きたい。
そんなことを思いながら、積荷に頭を預けて樹はぼんやりと空を見た。やはり闇だ。
やはり闇。あの時、見たような。
それは悪夢である。
これは樹が繰り返し見る悪夢である。それは彼女もよく知っている。
が、その悪夢から彼女は逃れる術を知らない。致し方ないのでみるしかない。
眼前には、鉄輪二体、そして武者幽霊が四体、自分を囲んでいる。
やっと手に入った真剣の切れ味を確かめる為に、入ってはならぬと父に窘められた鎮守の森へ単独で入った。
揺れる火の玉を見かけた瞬間、肩口に激痛が走った。鉄輪の釘が右肩に深く突き刺さっている。
動かせぬ右腕を見切り、とっさに左に「無名」を持ち替えた。すでに辺りには武者幽霊の咆哮が聞こえていた。
しまった、と思う。手におえぬ、と感覚でわかる。自分の力量で倒せる物の怪ではなかった。
おお、と右の武者幽霊が吼えた。錆びた剣を振り上げて、右から左への袈裟切り。
それをうまくいなして、後ろへ引く。
無名の柄を咥え、懐から、返し札を取り出し釘の刺さった右肩へとつける。じゅう、と肉の焼ける音がして釘がころりと肩から落ちた。
痛みは引いた。両手で剣を青眼に構え、次の一手を待つ。とたん、今度は足に痛みが走った。
二体の鉄輪が両足を釘で封じたのだ。動けぬ。
おお、おお、と泣きながら、武者幽霊どもは嘲った。
喉の奥が死の味で粘ついた。体が戦慄し、頭の奥で無駄な無数の策を弄すが、己の剣士としての経験が言う。死ぬのだ。
死ぬのだ、と樹は思う。ここで死ぬのだ、と。
そして頭の裏にあの素晴らしい門弟達、手の届かなかった沢山の門下の兄達、巣立っていった沢山の敬愛する友人の笑顔が浮かんでくる。
それにすら挑めずに死ぬのか。もうあの人達と笑い合うことも競い合う事も出来ぬのか。
死、を思った瞬間、体の力が全て抜けた。へたった足には力が入らず、無様にも尻餅をついた。
殺す道具である無名の剣先は、武者幽霊どもの眼前でただふるふると震えている。涙すら出なかった。
おお、と武者幽霊がまた吼えた。意味のない咆哮を繰り返し、その錆びた剣先が一斉に自分に振り下ろされる、その瞬間。
「にげぇぇい!樹ぃぃぃ!」
体が底から飛び上がった。眼前に迫っていた剣先は全て吹き飛ばされ、代わりに。
代わりにそこには父の、見慣れた父の背中があった。
見慣れていたはずの父の背中はいまだかつてない殺気に満ちている。これがあの父か、と樹は呆けた顔のままそれを見た。
父の声は、その殺気は、樹を蘇らすに十分な生気を持っていた。
抜けた足元を見れば、人の死を嗅ぎつけた餓鬼魂どもが大量に群がっている。
今更それに気がついた。
「逃げい!樹!」
父の太刀筋は、早く強く、武者幽霊どもを悉く元の骸へと返してゆく。
異様な殺気に押され、鉄輪の釘も父の体には刺さらない。
自分の無様な様に気づいたのはその時だ、やっと抜ける腰をどうにか起こそうとしたその時。
遠くでチリリ、と鈴のなる音がした。
暗い森にまぎれて、読経が聞こえ始める。その読経の音は、森の奥の暗闇から浮かび上がる虚無僧から聞こえてくる。
あれは、なんだ。
体中に冷水を浴びせられたような気分になった。何も思いつかなくなった。
ただ、体だけがガタガタと震え出す。それが、何の所為なのか、わからなかった。
「こいつだな」
耳元で若い男の声が聞こえた。声の主を振り返れば、それは見慣れぬ黒い服を纏った男だった。
途端自分の体が、重力を失って宙に浮く。咄嗟に父を見ればその背中はかつてないほどに震えていた。
「娘を」
搾り出すように、掠れた父の声がした。これが、最後なのだと悟った。
「お頼み申す」
凄まじい速さで見えなくなる父の背中に手を伸ばし、何かを樹は叫んだように覚えている。だが、それが何だったか定かではない。
目の奥に見える、父の背中。震える声で、自分を頼む、と言った父の背中。
遠くなる。暗い森の中で、父の背中が遠くなる。手を伸ばしても、伸ばしても、遠くなる―――
首の毛が一斉に逆立つ痛みで目が覚めた。
泡立つ肌は辺りの異常を伝えている。うどんでいた意識が瞬時に戦闘へと昇華され、辺りを探る神経へと成り代わる。
萎えていた体中の筋肉がじんわりと硬くなってゆき、音を立てぬよう腰は浮き、足はいつでも踏み出せるよう片足が立っている。
一匹。二匹。三匹。四匹。
暗闇の奥の気配を嗅ぐ。
右に一つ、左に一つ。その後ろに一つ。
そして、上に、一つ。
踏み出した足と共に抜刀、凪いだ無名は正確に二つの物の胴を抜いた。
意味のない叫び声が響くなか、樹の踏み込んだ足先は正確に間合いをとって踏みとどまる。
そのまま刀を返し、剣先を上部へ振り上げた。獲物の首筋を断ち切った感触が、柄を通じて樹に流れ込む。
そして空で弧を切った剣先の勢い衰えず、そのまま、彼女の正面へと進み来ていた何者かの兜から正中にかけて、一直線に叩き割った。
息を整え、辺りを探る。
幽かだが辺りに言いようのない物の怪の気配がある。
「…反魂香…。」
掠れて怯える声の主を見やれば、素子であった。
「はん…反魂香や…こんな、こんな下法用具が…。」
震える彼女を労わる様に、右京が彼女を抱き起こした。
「…御方は神聖な巫女であらせられる。こういった不浄の下法には慣れておらぬ…。」
「反魂香ってなぁ、なんだ」
樹が辺りを探りながら聞く。
震えて纏まらぬ素子の代わりに右京が答える。
「死者の魂を無理やり現世に呼び起こす下法に使われる香の事だ。大和では使用どころか売買すら禁じられておる」
短く鼻をすすれば、なるほど鼻腔に痛くそのくせ熟れた花のような嫌らしい香りが辺りに立ち込めている。
「どうやら魔物が巣食っておったらしい。この南蛮船はな」
刀を布でふきあげ、鞘に収めた樹は言った。
「行こう、ここに居ちゃ埒があかん。親玉を叩かんとな」
その背中から呼びかけるように、素子を抱きかかえた右京が言った。
「御前よ」
振り返った女丈夫の顔はいつにも増して頼もしい。
「遅れをとるな」
右京の言葉を受けてもやはり人を食ったような樹の笑顔の奥にはみなぎる自信が見て取れる。
「心得た」